■ 中山道

皇女和ノ宮歌碑 瑞浪市大湫町

皇女和ノ宮歌碑

 皇女和ノ宮歌碑は、平成六年が大湫宿開宿三九〇周年に当ることから、宿の記念事業として和ノ宮が一夜を送られたこの本陣跡にその歌碑を建て、記念碑とした。
御歌 『遠ざかる都と知れば旅衣 一夜の宿も立ちうかりけり」
   『思いきや雲井の快ぬぎかえて うき旅衣袖しぼるとは」
 また歌碑の裏面には降嫁の行列の様子が詳しく刻文されている。

(中山道ガイドブックより)

本陣跡と皇女和宮歌碑

 旧大湫小学校の校庭にかつての本陣がありました。和宮様がお泊りになった部屋は全て隣の土岐市の個人宅に移築されました。今は、ここには何も残っていませんが、跡には開宿390年の記念に建てられた和宮の歌碑があります。
 遠ざかる 都と知れば旅衣 一夜の宿も 立ちうかりけり
 思いきや 雲井の快 ぬぎかえて うき旅衣 袖しぼるとは

(大湫宿・細久手宿より)

皇女和ノ宮の歌と歌碑

 皇女を徳川将軍の御台所に迎え、斜陽化した幕府の威信と権力を回復せんとして、四閣老が連署した和ノ宮関東降嫁の内願書もできて、五月には正式に朝庭へ提出され、十月に勅許となった。
 文久元年十月ニ八日大湫宿泊りであった。関東下向中に詠まれた歌を歌碑とした。

住みなれし 都路出でて けふいく日
 いそぐもつらき 東路のたび
 悲しみの中に降嫁された和ノ宮が、深み行く秋の大湫宿で離れゆく京を偲び詠まれた御歌を、中仙道の名所琵琶峠に、市長渡辺遥三謹書にて建立する。
 昭和五十四年七月吉日  瑞浪市観光協会

以下旅の途中詠まれた御歌を記載する。
 惜しまじな 君と民の ためならば
  身は武蔵野の 露と消えても
 思いきや 雲井の快 ぬぎかえて
  うき旅衣 袖しぼるとは
 遠ざかる 都と知れば 旅衣
  一夜の宿も 立ちうかりけり
など。
 行程一三四里(五三〇km)二五日間の長旅であった。
 以上で、句碑・歌碑の紹介を終る。

 

姫様街道

姫君たちの通行 中仙道の駅制の中で最も特筆されるのは姫君の通行です。姫君の降嫁は文久元年(一八六一)の皇女和ノ宮に代表されますが、徳川家はすでにこれ以前に皇族や公卿の姫たちを、幾度も将軍や御三家の室に迎え、徳川家と他の大名との身分上の違いを確立するために姻戚関係を結んでいます。
 京都の姫君を江戸に迎えるためにその道中はたいへんな行列になりますが、東海道は混雑したり、川止めがあったり、遠州の今切り、駿河の薩埵(さった)峠などの地名にこだわったりして、そのはとんどが中仙道を通っているところから、「姫様街道」などと呼ばれているくらいです。

和ノ宮の降嫁

 中仙道は、東海道の裏街道とはいいながら、宮姫の通行や日光法要社参などはみな中仙道を通ったから、超大型の継立てである姫君の通行ということでは東海道より中仙道の方が本街道で、姫様街道の名の由緑もそこにあります。
 その中でも、幕末の動乱期を乗り切るための公武合体論に端を発した、文久元年(一八六一)の和ノ宮降嫁の行列は、日本だけでなく世界でも一、二番目の大通行といわれ、当時の宿駅の大機能を動員しての継立てでした。和ノ宮は仁孝天皇の皇女で、時の孝明天皇の皇妹、明治天皇には叔

 一行は宮とその侍女、宮中から派遣された三人の御局などを中心に、中山・菊亭・橋本・野々宮などの一三卿がこれを供奉し、関出雲守・加納納遠江守・戸川播磨守など―二藩主か警護のため随行し、沿道の二九藩が道中を警固するという大行列でした。
 一組合宿当たり人足二万五千人、馬七五〇匹平均が必要という荷物を運ぶために宿・助郷のほかに、一宿当たり平均一〇万石の「当分助郷」の村々か触れ当てられ、行列は四日間にわたっています。
 行列は、十月二十日に京都を出発して九日目の二十八日に大湫宿泊まり、江戸九段の清水御殿到着は十一月十五日のことで、旅程は大名などより十日程多い二十五日行程でした。
 当市の関係組合宿はこの時も、細久手・大湫・大井三ヵ宿で、助郷村は合わせて四六ヵ村・三万千五七一石で、百石当たり一五人一五匹の人馬が触れ当てられ、当分助郷村は合わせて―二万九千七七八石で総合計二万八千二〇〇人と八一九匹の人馬が寄せられています。

和宮降嫁

1861年10/26-10/29
4日間の大行列
(28日に宿泊)
御供 約5000人
人足等 約28000人
馬 約800匹にも

(『あるこうよおおくて』より)


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