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諏訪神社 瑞浪市土岐町鶴城

土岐町鶴城 諏訪神社

瑞浪市土岐町2911-11
【祭神】建御名方・八坂刀賣命・菅原道真
【境内社】稲荷神社・天神社・御鍬神社
【例祭日】10月の第2日曜日
【由緒】永禄8年正月創祀。永禄8年正月美濃国土岐郡土岐村住人延友三郎兵衛尉信光心願により、信濃国諏訪神社より、当村字諏訪洞という地に勧請。その後延宝の頃、当地即ち天神の森へ遷座。該村の氏子神と仰ぐ。この地を往昔より天神の森と唱える。明治6年1月13日郷社に列する。毎年10月の例祭には、市指定の無形民俗文化財となっている伝統の笹踊りが奉納される。この踊りは雨乞い踊りの伝承に従うもので、江戸時代からの中期から後期にかけて最も盛んであった。
(岐阜県神社名鑑より)


祭神 建御名方命(たけみなかたのみこと) 八坂刀賣命(やさかとめのみこと) 菅原道眞
諏訪神社
瑞浪市土岐町2911-11番地(鶴城)

美濃国神明帳所載の旧郷社
 国道19号鶴城の信号を北へ、中央自動車道をくぐり抜けると諏訪神社です。
 鳥居の奥の一段高い所に、真新しい銅板葺に輝く大きな本殿とその左脇に天神社が建てられています。
 この天神社は、古代の神名帳に従五位下神野(こうの)明神と記されている古社と伝えられ、中世には天神社ともいい土岐氏祭祀の神社だったようです。
 永禄8年(1563)鶴ヶ城主延友三郎兵衛信光(土岐信光)が、諏訪神を勧請し諏訪洞に諏訪神社を建立した旨の棟札ががあり、天正16年(1588)同じく城主関勝右衛門が天神社を再建したとの棟札も残されています。
 当時はこの諏訪神社と天神社は別の場所に祀られていましたが、土岐氏の衰退に伴い両社とも荒廃、その後正保年中(1640年代半ば)諏訪社を現在地に遷座して合祀し今の諏訪神社となったものです。
 明治5年には土岐釜戸地区の郷社となり、旧土岐郡内の名ある神社のひとつでした。
 本殿の屋根はもともと桧皮葺でしたが、長年月を経てひどく傷んできたため、種々協議の結果、銅板葺に改修と決定され、平成8年10月にその工事が完成しました。

例祭には伝統の笹踊りを奉納
 毎年10月の例祭には、市指定の無形民俗文化財となっている笹踊りが奉納されます。
 この踊りは雨乞い踊りの伝承に従うもので、江戸時代の中期から後期にかけて最も盛んであったといわれています。
 現在では、区内の中学生20名程が奉納、男子は白の狩衣(かりぎぬ)に烏帽子をかぶり、白い鼻緒のぞうりをはき、女子は青白の振りそで姿に一文字笠をかぶり赤い鼻緒のぞうりをはきます。そして、男女とも扇子と笹の小枝を持ち、地方の拍子木と唄に合わせて踊ります。
 子どもの数のへっていく時代ですが、この美しい伝統がずっと続くことを願うものです。
(瑞浪市の神社[H10発行]より)


諏訪神社

 諏訪神社は信光寺の建立と共に、延友三郎兵衛信光の心願により勧請されたもので、信光の業績のひとつとして、その社前に掲げられている由緒を紹介します。

郷社 諏訪神社 由緒
 當社の祭神は建御名方の神にして 大国主大神の御弟神なり 當社創建は 永禄八乙丑年正月美濃国土岐郡住人延友三郎兵衛信光の心願なり 當村字諏訪洞と言ふ地に勧請せり 其の後 延宝の頃 當社地 則ち天神ケ森へ遷坐し闔村氏神と仰ぐ此地を住古より 天神森と唱ふ 土岐全村の聴鎮守なり 土地開拓と五穀豊鏡を守らせ給ふ神なり
 明治六年一月十三日郷社に列し 明治四十年二月二十七日幣帛料供進社格となる
 御本社は信州諏訪郡中明村に在り 官幣中社諏訪神社是なり
 昭和五年十月十日  社司 丹羽 森一誌
 寄付 土岐町段 中村 長五郎

諏訪神社例祭 鶴城笹踊り
 諏訪神社は永禄8年(1563)、鶴ヶ城主土岐信光が建立したと伝えられる由緒あるお宮です。
 毎年10月の第2日曜日に行われる秋の例祭「笹踊り」は土地の守り神である諏訪神社に奉納されます。
 この「鶴城笹踊り」は、農民の雨い踊りの伝承に従うもので江戸時代中期から後期にかけて最も盛んであったといわれています。例祭当日には、男子は白の狩衣に風折れ帽子をかぶって白い鼻緒の草履を履き、女子は青白の振り袖に一文字笠をかぶり、赤い鼻緒の草履を履きます。そして、男女とも扇子と笹の小枝を持ち、地方(じかた)と呼ばれる伴奏者の拍子木と唄に合わせて踊ります。明治維新後は数々の戦争などで中止と復活を繰り返してきましたが、
昭和52年(1977)、市の無形文化財に指定され、有志による保存会を結成して継承活動を行っています。

鶴城笹踊り 歌詞
おもしろの賑わいは 神をいさめの音のよや イーヤ アーレ
どんどとなるは ひょうしよく なると トコトン
ならぬは 袖降る 手拍子 ソレ ソレ ソレ ソレ ソレーナ
しめて シャントエ ヘッキャ チンチン チンレツ トチレッシャン
おうよ あわぬよ 千早振る 神は昔の ふた柱 天の トコトン
岩屋で 開くや 梅の 見事さよ
ヘッキャオーイ

伊勢に 宇治橋 内宮や下宮や 八十末社の宮巡り
あいの山では おすぎにおたま ソーレ
しまさん こんさん なかのりさん
岩戸さんへは 道続き ソーリャ 二見が浦では浅間山
もんせき いそべ ヘッキャ びくにん 代代 神楽に
これなもし あがりゃんせ ヘツキャオーイ
おめでたや ただいつまでもこの舞台 変わらぬ花のかんばせや
にぎおうみよの さとかぐら ヨーイ チリント チントテシャン
(謡)千秋万才 万万才 祝い納むる 舞の曲

土岐地区まちづくり推進協議会
(現地看板より)


諏訪神社と笹踊り

 御本尊は、ひのきの曲げ物に入った男女の人形です。
 南北朝時代には、土岐氏の崇敬を受け、永禄8年(1565)には、神箆城主延友信光が再興したと伝えられています。
 笹踊りは雨乞い踊りの伝承に従うもので、諏訪神社の奉納神楽として江戸時代中期が最も盛んでした。作詞・作曲は不明ですが、伊勢信仰の影響を受けて、ニ見ケ浦や伊勢神宮の風物詩が唄われています。
 昭和52年(1977)に瑞浪市の無形民俗文化財に指定され毎年10月に行われる諏訪神社の祭礼に奉納されています。

(土岐地区 郷土再発見より)

諏訪神社

 平安期の美濃国神名帳に載る神野明神。南北朝時代には土岐氏の崇敬を受け、永禄8年(1565)には織田信長の土岐代官神箆城主延友信光が写興したと伝えられている。
 永禄3年(1560)の金銅神像あり。

(瑞浪市下街道マップより)

灯籠

(元禄七・一六九四・対・角・奉寄進小栗源六郎)
(元文二・一七三七・単・角・奉寄進市岡氏)
(寛延二・一七四九・単・角・市岡源兵衛)

 平安朝の神名帳の土岐郡七社のうち「従五位下神野明神」として載せられている古い宮で、明治の大小区制では土岐・釜戸両地区の郷社にもなりました。

 

 神社遷宮の導師が僧であると棟札に記載されている。
 市内で最も歴史のある神社としては、平安時代に国で作成した「美濃国神名帳」にも記載のある、酒波神社(さかなみ・日吉町南外垣)、尋河神社(ひろかわ・日吉町田高戸)、諏訪神社(すわ・土岐町鶴城)が挙げられます。

諏訪神社

江戸時代の雨乞い踊りを地元中学生が例祭に踊る!

所在地:瑞浪市土岐町2811番地
祭神:建御名方命(たけみなかたのみこと)他
    最古棟札永禄8年(1565)
由来:
 美濃国神名帳に、従五位下神野明神と記載され、中世には天神社といい、永禄8年(1565)鶴ヶ城主土岐延友三郎兵衛尉信光によって諏訪神社として創建された。

土岐延友三郎兵衛尉信光

 土岐氏一族は、平安朝末期から室町時代まで、ニ
百数十年にわたって、美濃守護として美濃国に君臨した。代々、鶴ヶ城城主であった。

狛犬奉献:昭和3年1月
特徴:玉乗りと子狛

諏訪神社の棟札

 棟札には法僧が神社の祭典を行ったことが記されている。さらに、瑞櫻山法妙寺が関わっていることから、同寺の勢力の大きさを推し量ることができる。

天明4甲辰年(1784)
「遷宮導師法明寺法印覚円大和尚」の名がある。

 瑞櫻山法妙(明)寺とは、現在、土岐町桜堂に所在する櫻堂薬師の寺名。明治に廃寺。三諦上人が弘仁3年(812)創建したとされる。

(瑞浪の神社を巡る)

土岐郡帳内七社

従五位下神野明神 元祭神:菅原道真 現祭神:建御名方富命 八坂刀売命天神ほか

「諏訪神社(土岐)」は天神社を合祀

諏訪社と尋河社

 共に帳内社で、諏訪社は土岐町鶴城、尋河社は日吉町田高戸に現在も続いている神社である。
 古代における土岐諏訪社は、猪野洞にあった字天神の森の天神社を指し、中世のある時期(土岐氏の関係によるか)に諏訪神を字諏訪洞に勧請しており、棟札によるとその後の永禄八年(一五六五)にこの二神を延友信光が願主となって合祀し、近世の延宝~貞享(一六七三~一六八七)ごろ現在地に遷座している。

諏訪神社

 旧帳内社 従五位下 古くは天神社 鶴城 中世諏訪社を勧請し永禄八年この二社を延友氏が合祖す。
 永禄三年(一五六〇)の金銅仏像あり。土岐鶴ケ城跡の隣地なれば土岐氏に関係の深い社と考えられる。
 現存の最古棟札は永禄八年(一五六五)正月

 延友は、三郎兵衛尉信光といい、永禄年中(一五五八~)土岐町信光寺を開基し(信光寺伝)永禄八年(一五六五)には土岐町諏訪神社を創立(同社棟札)し、その子市之丞は根ノ上砦の守将として岩村近辺城主覚にその名をみせている。

鶴城諏訪神社
 祭神 菅原道真・建御名方命・八坂刀売命
 旧帳内社・郷社 最古棟札 永禄八年(一五六五)正月造立 土岐町鶴城
 神名帳に従五位下神野明神とあり古代よりの鎮座神、中世には天神社ともいい祭神は古代より菅公にして、土岐氏祭杷の神社ならん。永禄八年鶴ヶ城主延友三郎兵衛尉信光「諏訪神を勧請し諏訪洞に諏訪神社を創建」の棟札あり、天神社天正十六年(一五八八)に同じく城主関勝右衛門(伊勢亀山城関一成の一族)再建の棟札あり。以後両社とも荒廃し正保頃(一六四四~)諏訪社を現天神社境内に遷座して合祀現在に至る。永禄三年造の金銅仏像あり。明治五年第十六小区土岐・釜戸地区の郷社となる。
土岐鶴城 諏訪神社 十六小区土岐村および釜戸七ヵ村の計八ヵ村の郷社


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