細久手宿

日吉第二小学校跡 岐阜県 瑞浪市 日吉町細久手

日吉第二小学校跡

日吉第二小学校沿革の略譜

明治42年9月 細久手分教場設置
明治43年5月 現位置に新校舎建設
大正2年3月 日吉第二尋常小学校設立
昭和16年5月 高等科を設置
昭和30年3月 新校舎行動建設 運動場拡張
昭和58年3月 統合により廃校

(現地看板より)

日吉村教育費と学校統廃合問題

 明治四十年(一九〇七)、日吉村には、日吉尋常高等小学校、白倉尋常小学校、深沢尋常小学校、半原尋常小学校の四校があった。明治四十一年尋常科就学年限が六年間に延長され、四校とも教室増築と教師増員を余儀なくされたが、教育費は年々増加し、予算歳出に占める割合が六〇%を超えるような状況となり、これ以上財政を圧迫することが難しい情勢にあった。

 村長は、教育費を節減するため日吉学校を本校として、半原尋常小学校を分教場に、白倉尋常小学校と深沢尋常小学校を合併させ細久手分教場新設という一本校、二分教場案を基本とし、当面日吉学校増築に着手する案を村会に提出した。村会は、日吉学校増築を原案通り可決したが、二分教場案は基本的方針としては諒承したが、明確な実施計画を示さないよう左記原案のカッコ内の文言を削除した。

第一号議案

日吉村四校を合併し今の日吉学校を本校とし新に或る位置に於て(細久手区字茶屋ケ根中に)一の分教場を設け之にて尋常小学校四ヶ年の教授をなす然れども二学年以上の生徒あるときは上級生徒より通学せしむる目的を以て日吉学校に間口十五間奥行五間の二階造りの一棟を建て(茶屋ケ根に設けたる)分教場は間口十五間奥行五間の平屋建とす建築費見積は本校増設の分三千二百五十円(分教場は弐千円なり)合併は時期を待って実行分教場新築も其当時共にするなり日吉学校建築舎は左の仕様方法に依り直に着手建築する事
    明治四十年一月三十一日提出
           土岐郡日吉村長 小木曽兵一郎

 こうして学校の増築が可決され、明治四十年二月県庁の教育資金より二〇〇〇円(五か年年賦)、多治見銀行より三〇〇〇円(七ヶ年年賦)、合計五〇〇〇円を借入した。これは同年度日吉村経常歳出三九五六円の一・二六倍という金額だった。こうして日吉学校は同年七月より工事に着手し、明治四十一年四月六教室落成により教室不足を解消した。
 四十一年四月尋常科五、六年生は日吉学校に編入される予定だったが、同年九月、村会は、先回可決した、本校二分教場案を撤回し、従来通り日吉尋常高等小学校と三尋常小学校(白倉、深沢、半原)とすることを議決した。その結果四十一年度の教育費は二七一四円に増加し、経常歳出の六一・七%に達し、加えて右記五〇〇〇円の返済もしなければならなかった。明治四十二年(一九〇九)六月「学校合併問題村会に於て分教場の決議をなせれども未だ民心其の機熟せず」というように学校統廃合は村を二分するような大きな問題となった。しかし、教育費が予算全体の六〇%強という状態を放置することはできず、九月村長は告示を以て村内白倉、深沢、半原の三尋常小学校を廃し二分教場とすることを決定し、明治四十三年五月細久手字茶屋ヶ根に二六二八円で細久手分教場を新築した。細久手分教場には日吉北部の尋常科四年生までの児童が、半原分教場には尋常科二年生までの児童がそれぞれ通学し、それ以上の学年の児童は本校の日吉尋常高等小学校に通わなければならなかった。この体制は明治四十三年から実施されたが、発足当初から細久手分教場校下の住民は本校に格上げする運動を続け、大正二年(一九一三)日吉村会も住民の意向を受け入れ、細久手分教場を日吉第二尋常小学校にすることを議決し、半原分教場には尋常三年生まで在学できることとした。そのため新に三〇〇〇円余りの臨時費が必要となり、教師の増員も負担する事となった。
 こうして日吉村は明治四十一年から大正二年まで六年間で八〇〇〇円の臨時教育費を工面しなければならなかったが、戦後の不況下で村民の寄付に頼ることもできず、村借入金で精算することに決定した。

(瑞浪市史 近代編行政より)


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