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初午大祭 荷機稲荷神社 瑞浪市稲津町小里

初午大祭

 荷機稲荷神社は、文化元年(1804)江戸時代中期に村内に凶作が続いたため村民が協議し、村内安全・五穀豊穣のため、京都伏見稲荷本社から御分身を荷機稲荷神社に迎えて祈願したのが始まりです。
 初午大祭は、和銅4年(711)2月初めの午の日に稲荷大神が伏見稲荷大社にご鎮座された日で、ご鎮座を慶びお祝いするお祭りです。
 昭和10年代までは、2月の初めの午の日に行なっていましたが、2月は積雪もあり参拝に難儀であるため3月初めの午の日に変更しました。更に昭和30年代には、日曜日を休日とすることが普及したので3月の第1日曜日を初午大祭の日と定めました。
 戦前は、陶土等を馬車で各地に運ぶため、馬の飼育数が多く初午大祭当日は草競馬で夕方まで賑わいましたが、トラックの普及により馬がいなくなり、草競馬もなくなりました。
 初午大祭には、参道・広場に多くの露天、屋台が並び、買い物や見物をする子どもたちで大変にぎやかになります。幣殿では、厄年の人達がお祓いを受けたりします。崇敬者は1年に一度家の神棚から神使いの陶製お狐像を持参します。そのお狐像は幣殿でお祓いを受け、御祭神とお合せする「お使者合せ」が行われます。東濃一帯及び名古屋・三河方面の崇敬者が相次ぎ終日賑わいます。
 初午大祭の最後には、厄年の人達、各地区から奉納された餅が多数投げられ大勢の人達が集まりにぎやかになります。

「お使者合せ」

初午大祭(3月の第1日曜日)

 初午に、崇敬者が家の神棚から神使いの陶製の狐像を奉持し、幣殿で像のお祓いを受け、御祭神と神謁(お合せ)し、神明の加護を祈り、家の神棚に安置する信仰行事です。

荷機稲荷神社-初午大祭 
小里の泰山のふもとの百姓の家に佐吉という子がいました。おとうさんが仕事の無理がたたって重い病気になってしまいました。あるお医者さんのいうには、朝鮮の国の妙薬である人参があれば治ると言います。しかしそんな高価なものはとても買うことができません。佐吉はいつものように氏神様へお詣りしました。「どうか、おとうの病を治す人参を恵んでください…」と必死にお願いしました。次の日稲荷様へ行ってみると、ほこらの前に人参がおいてありました。おどりあがってよろこんだ佐吉は、それを持って帰ると、せんじておとうさんへのませました。不思議なことにおとうさんの病気は軽くなり、ひとつきもしないうちに、もとの体にもどることができました。お礼詣りに行った佐吉は、油揚げをお供えしました。今では、小里の稲荷様は大きなお社になって、大勢の人がお詣りするようになりました。
●この昔話は、「ふるさと瑞浪」のお話のあらすじを短くして掲載しています。

瑞浪市稲津町小里地内
開催 3月第1日曜日
中央自動車道瑞浪ICより20分 JR瑞浪駅よりタクシー15分


荷機稲荷神社
509-6103 瑞浪市稲津町小里737-2




御祭神

  • 宇賀魂神 うがのみたまのみこと(素戔鳴命御子)
  • 豊受比売命  とようけひめのみこと (伊勢神宮外宮の御祭神)
  • 猿田比古命  さるたひこのみこと (天孫降臨の案内役)
  • 建速須佐之男命 たてはやすさのおのみこと(素戔鳴命、稲荷の神の父親)

社 格

無格社 創立より昭和二十八年二月まで
白幣社 昭和二十八年三月一日
銀幣社 昭和二十八年十一月十八日
金幣社 昭和三十九年八月十五日

鎮座当時の御社殿

御鎮座の由緒

聖 地
 当神社の鎮座地は昔より、伏見稲荷大明神の御使者(おししゃ)、白狐の御来泊所と言い伝えられ幾多の霊穴があり、近郷より不思議な縁起のよい穴と信仰が寄せられた聖地でありました。
 今を去る二六〇年ほど前、延享年代(1744-1749)に連年凶作が続いたので、農民が協議して、村内安全、五穀豊穣祈願のため霊穴の上に小さな社を建てて稲荷大明神を奉祀(ほうし)したところ、次第に世の中は立ち直り豊作が続きました。

伏見稲荷から御分神勧請(ごぶんしんかんじょう)
 其の後天明の大飢饉(1781-1789)に際し、伏見稲荷本社から御分霊をお迎えすることとなり、小里村・須之宮村・羽広村の内より六名が上洛し熱願懇望した結果、遂に文化元年(1804)3月、日本総司皇都稲荷別当から御分社の神璽を戴き、同別当から御鍵と証を与えられました。
 かくして新しく社殿を造営して鎮祭し、明治維新まで例祭には別当寺より社僧の参拝奉幣が続きましたが、明治七年改革により、官命でやむなく御本殿を村社八幡神社境内に移転させられました。

聖地へ再度遷宮
 しかし里人達は旧地を聖地として参拝する者があとをたたないので明治14年以降旧地に御遷座を出願したが、容易に実現しなかった。里人の懇願により、明治二十五年旧聖地に復帰することが許可されました。その後、明治30年5月御造営が完成し遷宮祭を執行、今の本殿の美が整いその後、幣殿、社務所など新築し、御鎮座200年を奉祝して整備が行われました。

文化元年(1804年)日本総司皇都稲荷本社、現伏見稲荷大社から御分社の神璽を戴いた証の写
お稲荷さん 拝殿前にて(大正2年頃)

 当地は陶土の生産が盛んで、その陶土を馬車で各地に運ぶため馬の飼育頭数は多く、初午当日草競馬で夕方まで賑わった。しかし、トラックの普及により馬は居なくなり、草競馬も昔の物語となりました。

競馬大会稲荷神社横にて(昭和15年)

御使者

※神社にはそれぞれの神様にかかわる、神のお使いがいます。春日神社に鹿・北野神社に牛・八幡神社に鳩。稲荷神社に狐とは土地によっては狐の鳴き声や餌の食べ方などによって占いをしたり狐にまつわる民話もあります。狐は農耕を妨げる野ねずみや野兎を退治したり水田近くによく現れることから農耕の神様のお使いと言われるようになりました。

宝 物

御神刀 上野守菅原包宗作(大和手掻又は大坂住い)(1661〜1673年頃の作刀)
伏見稲荷本社より御神璽として共に与えられたとされる狛犬
文化元年八月土岐郡木村町山本半兵衛作 当村 和田権右衛門奉納
明治十九年五月吉日 駄知村 加藤恵助奉納

荷機稲荷神社の変遷

西暦年号内容
1804文化1年江戸時代中期連年凶作が続いたので村民が協議し村内安全・五穀豊穣のため、京都伏見稲荷本社から御分身神を勧請奉斎した。
1874 明治7年 明治維新で官令によりやむなく本殿を小里八幡神社境内に移転
1892 明治25年 以後旧地に遷座を強く出願明治二五年五月二日付で遷宮許可
1879 明治30年 現在の本殿・拝殿を三ヶ年余苦心して造営遷座
1926 大正15年 遷座西広場にテニスコート開設・東濃四郡の競技大会開催
不詳 初午に草競馬会を催していたが、馬が皆無のため中止
1930 昭和5年 津島神社を合併し荷機稲荷神社を稲荷神社と改称
社務所新築
1941 昭和16年 社務所において農繁期のみ季節保育所開設(数年間)
1952 昭和27年 講和条約発効を記念して月参講を組織、現在に続く
1953昭和28年 銀幣社に昇格
1954 昭和29年 稲津招魂社創立を承認(岐阜県知事許可)
1964 昭和39年 金幣社に昇格
1974 昭和49年 社務所屋根葺替
1981 昭和56年 旧稲津小学校玄関の石畳を使用して参道改修
1987 昭和62年 幣殿新築、本殿拝殿修復並びに屋根銅板で葺替
2003 平成15年 御鎮座二百年を奉祝して社務所改築と拝殿改修
稲荷神社を荷機稲荷神社と創立当時の社名に改称

稲津招魂社

 昭和27年4月、第二次世界大戦終結。サンフランシスコ講和条約発効を契機に、大東亜戦争に殉職された稲津村出身の軍人・軍属及び殉難者を永久にお慰めしようと、稲津村の村民の真心により、稲津招魂社を建立。
 昭和29年岐阜県知事を迎え、日清戦争以後、国難に尊い命を捧げられた145柱の鎮魂祭が執行されました。
 その後、毎月御祭神の遺族等の奉仕により、月次祭が行われ、4月29日の例祭には町内の崇敬者が真水一合を神前に供え、社前の鎮魂碑と埴輪の像にそれぞれ祭神を偲び、末期の真水を捧げ献水祭を行い慰霊に務めています。

大陶神社

 東濃地方は良質な主原料に恵まれ、陶磁器・タイル・耐火煉瓦・瓦などのセラミック業界をリードして来ましたが、近年発展途上国の追いあげや、需要の減退などにより業界全体に往時のような活気が見られない。しかし、セラミック製品は長い歴史と文化があります。
 今こそセラミック業界は足もとを見直し、量から質に転換し、更なる意気込みで盛り上げようと「ふるさと稲津いきいき会」が主体となり、御神殿はすべてセラミックで造営して、平成11年4月17日御鎮座しました


  • 世界一の大皿「瑞祥」

    平成8年(1996)製作、直径2.8m、高さ30cm、重さ1,220kg構想から完成まで1年8カ月、作業時間は10カ月を費やし延べ150人の地元の方々の労力によって造りあげられ、約1200度で1週間かけて…
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