■ 中馬街道

中馬街道 瑞浪市陶町

中馬街道


 信州飯田より尾州名古屋へ通じる物資を運ぶ道がありました。
 明治20年から30年にかけて恵那郡議会で中馬街道と命名。里程六里三十町上村地内平谷より土岐郡界まで。

東辻町道標
右:あけち-しなの
左:いわむら-きそ道

 中馬街道とは、信州と名古屋を結ぶ道のことです。
 中馬とは、信州で始まった運送業の組合で、信州の百姓が副業として始めは自分の荷を運んでいましたが、次第に商品を運ぶようになり、経済の発展とともに商品荷物の運送業になっていきました。
 東海道や中山道など五街道と呼ばれる街道では、幕府公認の傳馬と呼ばれる馬が宿場ごとにありましたが、主にお上の御用に使われるもので、庶民が利用しようとすると高額の駄賃が必要でした。それに宿場ごとに馬を替えなければならないという替え馬制度があり、その度に手数料を取らました。
 中馬街道は通し馬で名古屋まで運ぶことができ、通行料や手数料も取られないということで発展しました。
 宝暦9年(1759)お上御用の問屋場との間に紛争が起きますが、明和元年(1764)には幕府公認となりました。
 中馬街道は、飯田→根羽→足助→岡崎→名古屋へと行くのが本街道ですが、大廻りであるということから、飯田→根羽→上矢作→明智→陶→曾木→柿野→瀬戸→大曾根→名古屋へと至る脇街道も使われました。
 脇街道は峠が多く冬は雪も深いけれど、距離的には12kmほど短かかった。
 名古屋へは塗り物・曲げ物・木炭など、陶からの陶器も、信州へは綿布、海産物などが運ばれました。
(中馬街道大川地区散策資料より)

中馬街道

(1)概略
 私は子供のころ「陶の町には中馬街道が東西に走っている。この街道は信州伊那から名古屋への道で、名古屋方面へは曽木、柿野、品野、瀬戸を通って名古屋へ通じる道である。」と教えられました。
 この教えは間違ってはいないけど、下記の2点で少し誤解を与えそうです。1点は、街道という言葉が、東海道、中山道などの整備された街道、宿を思い浮かべてしまうのだが、陶を通る中馬街道は、山中の村と村を繋ぐ山道が主体で、けもの道に毛の生えたようなところも多々あったと思う。宿も木賃宿(食事は宿泊客が米など食材を持ち込み自炊が原則で薪代相当分を払う)が所々にあった程度と思われる。
 もう一点は、中馬街道という名前の街道は数多くあり、信州の農民が始めた「中馬(ちゅうま)」が使った街道を中馬街道と呼んでいる。陶を通る中馬街道もその一つである。したがって、名古屋辺りで中馬街道の話しをしていると別の街道の話しのことがある。
 中馬は、当時の常識を覆して一人の人間が一度に3~4 頭の馬を引き、宿場で馬を替えることなく、しばしば宿場のない脇道を通りスピード輸送を実現した。宿場を使わないので、運賃も安かった。
 中馬街道というと一般的には信州飯田から南下し信州の西南隅の根羽にたどりつき、ここから三河国に入り、二道に分岐する。一つはさらに南へ下って田口を経て吉田(現、豊橋市内)にいたる。一つは西南に向かって足助を通って岡崎・名古屋へ出る道である。この二つの道が中馬街道の本道である。この本道から分岐するもう一本の道がある。即ち、根羽から西に向かって一旦、三河大桑に入りすぐに美濃へ出て、小笹原・横道を通って上村・明智・柿野を経て尾張の瀬戸・名古屋へたどる道である。これが東美濃の南部を東西に貫く重要な道として利用され、中馬街道の脇街道として信濃・美濃・尾張を一本の線で結びつけていたのである。この道も一般に中馬街道と称している。この街道が私たちの町である猿爪、水上、大川を縦断していて、中馬脇街道と呼ぶのが正しいかもしれない。
 本街道と比べると、道の整備は不十分であったが、前図で分かるように伊那と名古屋を本街道より直線的に結ぶので、山間地を通る難所の多い道ではあるが、所要時間は短かったようである。
 この道を中馬街道と呼ぶようになったのは明治24年であるが、この道自体は古くから知られており、中馬が通るので中馬道とか、部分部分で名前が付いていたと思われます。瀬戸街道とか、明智街道とか。
(2)中馬の発生
 信濃・甲斐は中部山岳地帯が国内を貫通し、信濃においては河川が水運に向かなかったために、山越えのし易い馬による輸送に依存せざるを得なかった。加えて五街道などでは公式の伝馬役は隣接する宿場町間のみの往復に限定され、町ごとに馬を替えなければならず、かつ、駄賃や問屋場口銭を徴収された(「宿継ぎ」)ことから不便であった。
 一方、江戸時代初期頃より沿道の農民が、自己の物品を城下町などに運ぶ手馬(てうま)と呼ばれることが行われていたが、寛文年間ころより副業として駄賃馬稼も行うようになった。それが次第に専業化して、顧客の依頼を受けて顧客の元から相手先の宿場町まで荷物を運ぶようになり、元禄年間初頭(1690 年代)には中馬と呼ばれるようになった。
 木曽から筏に乗って来る人を「中乗りさん」、諏訪から馬に乗ってくる人を「中馬さん」と呼んだのであろうか。
 飯田藩の城下町である飯田宿が、中馬の主たる根拠地であり、荷問屋が設置されて信濃国を通過する荷物は、ここで一括して宿継ぎを行うことで中馬の負担を軽減させた。
 中馬は、宿場町で馬を替える必要がない「付通し」あるいは「通し馬」と呼ばれる仕組で行われていたため、手数料を取られたり、荷物の積み替えの際に荷物を破損する可能性が低く、急激に成長していった。一方、伝馬役を扱う宿場問屋は大きな打撃を受けただけでなく、江戸幕府の公的輸送負担を課せられて二重の意味で苦しんでいたため中馬に激しく反発した。
 延宝元年(1673年)と元禄6年(1693年)に宿場問屋が、中馬の禁止を求めて江戸表に訴えを起こしたが、「中馬の慣行を規制する理由なし」として却下された。もっとも五街道や北国街道では、江戸幕府により、沿道の藩単位でも藩法による規制が行われる例はあったが、飯田藩のほぼ全域を貫く飯田街道(伊那街道)では中馬の規制が緩やかであった(松本宿へ600駄、上諏訪宿・下諏訪宿へ800駄の宿継ぎを義務付けた以外は規制が行われなかった)ため、同地域を中心とした当時の南信濃4郡(伊那郡・諏訪郡・安曇郡・筑摩郡)を中心に隆盛となった。
 信濃からは煙草・酒・米・大豆・小豆・麻などが外部に出され、逆に外部からは茶・塩・綿・鉄器・陶器などが信濃に入ってきており、中馬はその運搬に重要な役割を果たしていた。
 このため、宝暦10年(1760年)には中馬の大幅な規制を求めて再度の訴訟となったが、これには中馬側と松本商人が連携して激しく抵抗した。明和元年(1764年)に江戸幕府は村ごとに中馬の数(679村計18768匹)と輸送できる物品及び活動範囲を定めること、伝馬制の維持への協力を条件として中馬の公認を行った(明和裁許状)。その後も宿場問屋や中馬によって脅かされ中馬と同等の権利を求めた三河国の村々の農民との争いが勃発したが、明和裁許状をたてに中馬側が彼らの抵抗を抑圧しながら勢力を拡大させ、明治に至ったが、鉄道・道路の整備とともに衰退していった。
(3)中馬脇街道(陶を通る中馬街道)
 中馬脇街道は、東美濃の南部を東西に走り、これらの村々を南信州と名古屋を結び付け、商い荷物の物流を担った。特に瀬戸を通過するこの街道は、陶磁器(通称:セトモノ)の輸送ルートとして大いに発展した。
 村人の中には馬士として地方産物の運送に従事し、生計を立てるものもいた。明治初年頃、中馬街道筋の恵那郡内25か村の牛馬数は、馬が694頭・牛が89頭と多頭数であり、この数は、農間稼ぎ・駄賃稼ぎの外に馬方を本業とするものがいるなど、商品の動きが活発になって来ていたことを表している。
 中馬の馬方は一人で牛馬数頭を引いて旅したということです。寂しさを紛らわすのに、あるいは山中で獣に出会わないように道中馬子唄を口ずさみながら旅したことであろう。
 この馬子唄を私なりに解説すると
『中馬の馬子(馬引き)は伊那の根羽や平谷の26歳の若衆だよ(二男坊、三男坊…?)。
 この街道を一口で言うと、上矢作町漆原から大馬戸を登り(標高600m強)、途中の明智で一休みし、坂瀬(柿野から品野へ下る途中の地名…現在の見晴台辺りか?)へ下る街道のことさ。
 山の中、吉良見、吹越、猿爪を鶯の声を聴きながら気持ちよく旅しているよ。
 山の天気は変わり易い。西に向って旅をすれば、恵那(恵那郡)では曇っていても曽木では薄曇り、柿野の辺り(恵那から徒歩で半日後)では晴れてくる。
 美濃の大馬戸 尾張の坂瀬 碓氷峠の急坂がないといいのになあ。
 坂瀬の急坂を下ると新居松原(尾張旭市)品野では縄手(あぜ道)が、だらだら続く。
 平坦な道なのに急な下りの後なので長い登りに感じられる。いっそ両方ない方がよい。
 小幡過ぎれば、尾張名古屋の東の玄関 大曽根はもうすぐだ。近くの茶屋に男盛りのおいらが寄れば看板娘もさぞうれしかろう。』
と、いったところではないでしょうか。
 馬子唄では、道中のたいへんな峠は美濃の大馬戸 尾張の坂瀬 碓氷峠といっております。ということは、馬子にとってわが町の乱曽坂も平坂も大した事はないということです。
 谷の鶯 笹渡りというのは、谷の鶯が笹鳴き(やぶ中をチャッ,チャッという声を出しながら移動)しているという意味か、あるいは、普通鶯は谷を渡るときキキキキキッキョキッキョと鳴く(谷渡り)のに猿爪の鶯はチャッ,チャッと笹鳴きしながら谷を渡っている、各土地それぞれだなあ、という意味だろうか。
(4)陶にとっての中馬街道
① 戦国~安土桃山~江戸時代初期
 瑞浪市最古の大川窯は、室町時代の文明6年(1474年)、武蔵之国久良岐群(横浜市)出身の加藤左衛門尉景信が陶町大川に大川窯を開窯しています。
 その89年後(永禄6年 1563年)に瀬戸の人、加藤萬右衛門尉基範が水上に開窯し、続いてその子、仁右衛門尉景貞が天正6年(1578年)土岐の久尻より移住し、猿爪釜ヶ洞に築窯しています。それより更に20 年を経て久々利・大平村の加藤太郎右衛門景里(景豊5男)が、慶長7年(1602年)水上の地に田尻窯を開きました。
 上記のように、室町より江戸時代にかけての東美濃における美濃焼発祥の地としての大川窯、水上向窯、猿爪窯、田尻窯が、私たちの町に相次いで開窯したのは中馬街道があったからではないかと考えられます。
 開窯の祖はすべて私たちの町以外の方たちです。つまり、陶工に陶の地が選ばれたのです。選定理由は小里川水系で材料となる良質の粘土が出土する。山があって原料となる薪が容易に手に入る。山があって窯を築く(当時の大窯は頂上付近で傾斜を利用)ことができる。水が近くにある。などが考えられますが、私にはこれらの点は、陶の地が特に優れていたとは思えません。土岐川(小里川)水系であればそれほど差が無いように思えます。
 やはり、当時まだ整備不十分でしたが、中馬街道の存在が非常に大きかったと思います。
 大川窯の景信(武蔵之国の人)は尾張方向から大川に入ったであろうし、大川窯4代目景度(与左衛門)は尾張の織田信長より朱印状を頂いているのでこの街道を何度も往来したことであろう。
 水上窯の基範(瀬戸の人)は戦国の戦禍を逃れて尾張の瀬戸からこの中馬街道伝いに入ったであろう。そして基範はこの街道整備もしたようです。
 そして、猿爪窯の景貞(基範の子で久尻より入村)、田尻窯の景里(大平村より入村)は、街道の存在により原材料の搬入、尾張・三河への製品の搬出が比較的容易なこと、窯業先進地の瀬戸が結構近いことなどの便利さを基範より教えられ、土岐から妻木経由で中馬街道に入り、この地に入ったであろう。
 つまり、陶地区は中馬街道があったことにより、東美濃における美濃焼発祥の地の称号を得ることができたのではないでしょうか。
② 江戸時代中期~末期
 江戸時代中期になると安定政権のもとで経済が発展し、物流も盛んになります。尾張と信州を結ぶ中馬街道の往来も盛んになったと思います。猿爪村、水上村、大川村にも宿泊所・休憩所などができ、村人の中には馬方になって賃稼ぎした人も現れたと思われます。
 また、おかげ参りと称する伊勢神宮参拝、四国八十八カ所巡礼、西国三十三カ所巡礼、坂東三十三カ所巡礼などが盛んに行われるようになります。当時、旅に出るには村役への届出が必要ですし、経済的にも村人すべてがこの参拝の旅には行けませんが、一族の代表者、講仲間の代表者などが中馬街道を使って参拝の旅に出ました。当時の人々は巡礼を終えて無事帰村すると、参拝が成就したその証しとして地元に満願の供養塔を建てて感謝をし、身近で一族の者が、講仲間が拝める対象物にした。
 陶にも巡礼記念碑をいくつか見ることができます。吹越にある西国巡礼供養塔で、天明元年(1781年)に猿爪連中によって建立され、右あけち・しなの 左いわむら・きそ道の道標にもなっています。
 もう一つ、陶の人の誰もが認める実質的陶祖「曽根庄兵衛」は、万延(1860年…庄兵衛35歳)の頃になると、中馬街道を使って製陶業の勉強のためにほぼ毎日のように妻木通いをしています。猿爪から妻木への道は大川から乱曽坂を越えて曽木に入り(中馬街道)、更に妻木まで山道で約4里(15km)ほどあろうかと思います。「窯焼きによって猿爪村の村民に現金収入の道を与える。」この庄兵衛の夢(陶磁器産業による陶町の夜明け)の実現のために中馬街道は役だったのです。
 そして庄兵衛の開窯(文久元年1861 年)に続く永井九郎衛門ほか多くの開窯者が、中馬街道の恵みを受け、瀬戸・品野・多治見、妻木などから先進の技術を学ぶと共に、材料・窯業道具などの供給を受けることができました。
 つまり、近代的な窯業技術・三河石など原材料の流入経路になりました。そして、製品の搬出経路にもなりました。
③ 明治時代
○明治になると有名人(その後、有名になる人)が中馬街道を利用しています。
 明治4年4月8日、16歳の下田歌子(当時の名前は平尾鉐(せき))は生まれ故郷の岩村を発ち、猿爪から中馬街道で瀬戸に出て、三河から東海道で上京している。
 途中の尾張・美濃・三河の国境で、 綾錦着てかへらずは三国山またふたたびは越えじとぞ思ふ の一首を詠んでいる。綾錦を着て故郷に帰るということは、立派に成功してその功績をもって帰るという意味である。
 中馬街道を通過した縁あってか下田歌子は晩年(昭和10年頃)に「岐阜県立陶尋常高等小学校 校歌」を作詞している。
 ♪かざす国旗の日の御影~ で始まる校歌を覚えている人が陶には相当数いるのでは?と思う。
○明治になると、後に陶の御三家と呼ばれる山五(明治5年)、金中(明治18年)も創業を開始します。陶のみならず、明智・吉良見・原にも開窯する人が出て、焼き物の原料運搬、道具運搬、機械運搬、製品運搬、技術交流に大いに役立ちました。
 この頃になると中馬街道は、信州伊那と名古屋を結ぶというよりは瀬戸物街道とでもいうか東美濃と瀬戸・名古屋を結ぶ街道の意味合いが強くなりました。
 明治23年には中馬街道も改修(拡幅工事、峠の掘り下げ工事など)され、馬引きでなく大八車や馬車が通れるようになりました。
 陶にも馬引きを業とする者もいたようで、明治の初め猿爪8頭、水上8頭、大川7頭の記録があります。その後の窯業の発展とともに馬引きの数は増加してゆきました。陶に残る馬頭観音の数がこのことを物語っています。
 馬頭観音は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊。観音菩薩の変化身(へんげしん)の1つであり、六観音の一尊にも数えられている。観音としては珍しい忿怒の姿をとる。
 「馬頭」という名称から、民間信仰では馬の守護仏としても祀られる。さらに、馬のみならず、あらゆる畜生類を救う観音ともされ、六観音としては畜生道を化益する観音とされる。
 近世以降は国内の流通が活発化し、馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなった。これに伴い馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音が多く祀られ、動物供養塔としての意味合いが強くなっていった。陶にある馬頭観音も動物供養塔としての意味のものがほとんどだと思います。
 上手玉喜著の「陶の石造物」によりますと、馬頭観音は陶だけで54塔あるとのことですから、その隆盛ぶりが偲ばれます。
 「曽根100 年史」に明治41年の名古屋への荷出しの様子を「瑞浪まで鉄道は開通したが、猿爪から瑞浪への交通手段がなく(人力車はあった)道も狭くて陶磁器の運搬は、荷馬車ではあるが中馬街道で名古屋へ出るのが常であった。朝早く猿爪を出て瀬戸と名古屋の中間の印場の馬宿で一泊し、翌日に名古屋へ入り荷卸しし、揚げ荷を積んで帰るのだが、帰りは品野まで来て泊まるか、柿野まで来て泊まるかである。ともかく名古屋への荷出しは三日がかりの仕事だった。」とあります。
④ 大正時代~
 隆盛を誇った中馬街道ですが、明治35年には中央線の瑞浪駅が開業し、更に明治44年に中央線全線が開通すると、道路は鉄道沿いの路線が改修・拡幅されて中心となり(現在の19号線)その存在感が薄れていきます。
 東濃南部からの荷出しも鉄道を使ったり、中央線沿線の道路を使ったりの輸送が主となっていきました。
 沿道の村人の生活を潤し、日本のみならず世界中の人々の暮らしの中へ茶碗や皿を送り続けた1本の道はその役目を終えましたが、沿道の人々の生活道路として無くてはならない街道であることは今も変わりはありません。
(5)陶の中馬街道を歩く
 中馬街道が陶のどこを通っていたかは、時の経過(道路整備)とともに変遷するので一定ではないと思いますが、陶の町中の中馬街道を当時の旅人の心境を思い浮かべながら、また陶の旧跡を訪ねながら東の方から旅してみると、
① 猿爪地区
○吹越
・吹越という地名は「風が強くて吹き抜けるところ」からきているそうです。
 吹越の信号を少し山岡側に入ったところにモニュメントがあります。それによると「峠の古道を吹き抜ける風に 木枯しの冬は足を凍らせ夏の爽やかな風に流れる汗を干し…」とありますから、険しい峠というより、強風が旅人を襲った峠だったのでしょう。
・現在、喫茶「スイートピー」の前に道標があります。道標には、猿爪側から見て「ひだり いわむら、みぎ あけち」と刻銘があります。
・猿爪から道標を左に曲がると直ぐに(この辺りの字名は白坂)馬頭観音、三界万霊塔などが祀ってあります。ここは村境なので様々な石造物が見られます。更に登って原方面が見える所まで来ると、確かに北風が吹き抜けそうな地形です。
○井の平
・金蛇入池を農業用水に利用して開けた地が井の平です。
・明智で一休みした馬子は、吹越(矢作川と土岐川(庄内川)の分水嶺になっている)を越えれば後は目的地名古屋まで基本的には下りです。必然的に足元も軽くなり、馬子唄を唄う声も大きくなり、鶯の鳴き声を楽しむ余裕も生まれたのではないでしょうか。
・吹越から少し下って右側に勝野宅があります。
 この家は、かっては馬引き連中の休憩所(お茶飲み場)で、馬を留めて置く際の馬の水飲み場があり、今もそれが残っています。
・街道から少し外れますが、吹越を下り水野愼一さん宅東を右に曲がって山中に入ると、東町の人たちが守る「秋葉さん」「津島さん」があり、その横に「行者様」と「塞の神」(享和3年(1803年)の刻印あり)があります。「行者様」も「塞の神」も、村境で疫病の侵入を防ぐ、旅人の無事安全を守護する神様なのでこんな山中にあるのは不思議です。違う場所にあったのを道路工事などの理由でここに移したのではと思います。それともこんな高い所から村境を見守ったということでしょうか?
・街道の南側の山中には東町の景山氏が平家の侍大将 悪七兵衛景清(あくしちべいかげきよ)を氏神として祀る「影清神社」があります。
○猿爪旧道の山善さん本宅の門横に馬頭観音あり。
・陶町史考に「観音様の怒り」として登場する観音様です。
○猿爪旧道から猿爪墓地方向に曲がる。
・この先が(墓地への道)が水野白舟著「陶町史考」では、旗本明智遠山領内で通達が廻る猿爪から田代への重要な道とされています。(猿爪の前は阿妻)
 確かに、墓地への道を登り切った所に、瑞浪市の語りべの会によると思いますが「佐々良木街道」の道標があります。
・この辺りが中馬街道と佐々良木街道の交差点ということになります。
○本町津島さん
・猿爪墓地への坂道に入り、少し登った右側に本町の人達が守る津島さんがあります。私が子どもの頃の津島さんの祭りは盛大で、ちょうちんで飾った舟が引き回されていたことを思い出しました。(水上の祇園祭りのように)
○関屋の庚申さん
 坂道を少し戻り、西に向かうと右に関屋の庚申さんがあります。
・小木曽文夫氏の『中馬街道膝栗毛』では「庚申さんは猿爪の地名を産みし名付け親」と詩われています。
 庚申さんの見ザル、聞かザル、言わザルは三つ並べば爪となる。
 庚申さまの猿むらい 猿は去るとて 猿(ましら)としましらが訛って猿爪(ましづめ)産まれる
・旅人は「うまいこと考えたな~」と感心しながら、庚申さんに旅の安全を祈ったことでしょう。
○猿爪の石橋
 庚申さんを通過して猿爪の旧道に戻りミカドの床屋さん方向に向かう途中、八百屋の新星さんを左に曲がった細い道に猿爪川にかかる石橋があります。切り石を6本並べた珍しい構造の橋で、「寄進者 馬連中」と刻印がありますから、中馬街道の馬引きで生計を立てていた猿爪地区の馬引き仲間が寄進したものと思われます。
○名木「榧(かや)の木」
 上記の新星さんを右に曲がって細い道を登るとほどなく「瑞浪市の名木」で紹介されている榧の木があります。榧の木は、成長は遅いが寿命は長い木です。昔からこの名木が眼下の街道を通る旅人を優しく見守った事でしょう。木の根元には氏神様の祠がありますから、長寿にあやかろうとお参りしたかもしれません。
○ミカドの辻を右に曲がって元町方向へ
・ミカドの辻横に永井さんがお守りする経塚・氏神の石造物があります。馬子は馬子唄ばかりではなく、読経しながら旅の安全を祈願し旅したかもしれません。
○元町という地名からすると昔は猿爪の中心地だったのでしょうか。
猿爪川と中の草川が合流し、沢の尻を含めてこの辺りが猿爪の中では一番の繁華街だったかもしれません。実際、小木曽安男さんによると、「猿爪の中心地(元町辺り)から日の出を見て、「日向道(ひかげみち)」「旭町」の地名が付いた。」と言われています。
○平坂
・曽根さん宅前を通り、右に曲がって、沢の尻の竹藪の中に入り、愛宕さんの鳥居の前に出るのだが、現在では、道らしい道はなく藪中の道は不明だが、藤田建設の資材置き場に出る道がそうであろうか。馬子には、竹藪を登る途中の北側山麓に吉祥院の跡地が見えたはずです。ここは戦国時代に武田の軍勢により焼かれてしまった寺の跡地です。(現在は国道の下か、クラウンCCの敷地内)武田は馬子の故郷である信州の支配者だっただけに、馬子は「おらが頭(領主様)が、悪いことをしたなあ、勘弁してくれよ。」と呟きながら歩を進めたのではないでしょうか。
・現在では現在浅井金物店前の坂を平坂と呼んでいるが、平坂は愛宕さんから沢の尻にかけての一帯の字名である。そう考えて学校側から見ると平坂の尾根は沢の尻から天神さん方向へのなだらかな丘であり平坂の名前も納得がゆく。
※現在の平坂の道は山を掘り下げて作っている。それも何回も。
・愛宕さんで一服
 愛宕さんは安政(1860年頃)の頃にはあったということだから、明治前後の旅人は水上方向を眺めながら一服したことでしょう。もっとも、現在の立派な社は伊藤家の氏神として山五さん他の寄進によるものだから、今の社よりもう少しさみしい社だったとは思いますが…。
 愛宕さんで一服したら宅老所辺りを通って、陶幼児園辺りを通って、(この辺りから地名は水上)喫茶ノンノンの前を通り、沢(現在の陶小学校のグランドはこの沢を埋めて造った)を下り、陶大橋(警察派出所裏の橋)をくぐり、猿爪川に向かって下っていく。
②水上地区
○平坂~舟ケ元
・『すえのむかしばなし』に出てくる「嫁ご岩」は陶小のグランドに埋もれてしまったようです。朝早くここを通過する旅人は「たびはかしょな。たびはかしょな。」というという娘(実は白狐)の姿を見たかもしれません。
・猿爪川と平坂からの川が合流した辺りを船ケ元というそうです。昔は川に橋を架けるというと大変なので、両岸をひもで結んでおき、川辺に置いた船(というより筏かも)で紐(ひも)を手繰りながら渡るようにした方が安上がりであったのです。山奥で舟ケ元という地名は変ですが、こういう事からこの地名で呼ばれるようになったようです。旅人も夏の暑い日には川に入って舟遊び・水遊びをしたかもしれません。また、もう少し下ると馬渡し橋という橋がありました。これは、橋というより川を渡るための置き石で、牛馬はこの石を渡って向こう岸に渡ったそうである。
・猿爪川から離れ、樋の下方向へ行く。途中に道標あり。道標の表面には『右ぎふたぢみ 奉納西国四国秩父坂東供養塔 左なごやをかざき』裏面には『明治三十二亥年三月…』の刻印があります。 たじみ(多治見)のじの字がぢ、おかざき(岡崎)のおの字がをになっており時代が感じられます。
・道標に従い、右方向に曲がり、猿爪川沿いに下れば川折の小滝に出る道がある。この道が通称「小滝道」で、明治期の小里から猿爪への主要通路(現在は小里川ダムにより水没)であった。
・道標に従い、左方向に進み、樋の下で右へ曲がって、日向(ひよも)へ出る道が明治期以降の中馬街道である。
○水上関屋道
・今まで平坂をくだり、舟ケ元を猿爪川沿いにくだり、日向への道を中馬街道として紹介してきましたが、江戸期には、もう一本の道がありました。平坂を下った後、現在の陶小学校の前で左に折れて、坂を登り水上関屋へ出る道がそれです。途中の山中には、天保3年(1832年)建立の西国供養塔をはじめ、道祖神など多くの石造物があります。ここは猿爪村と水上村の村境にも当りますから、旅人は「またひとつ村越えをした。」と感謝し、ここで旅の安全をお祈りしたことでしょう。
・関屋道を下り、農協の前で北側の山を見ると、山の中腹に観音坂の石仏群が見えます。行きかう旅人を見下ろすような位置に建てられた石仏は、信州出身の木喰上人の作といわれていますから、上人は同郷の旅人を見守るべく心をこめて制作したのであろう。
・少し街道から離れますが、水上不動廟上の墓地に木喰上人の墓があります。水上の木喰上人は江戸の中期に水上村に住み、穀を断ち山から採れるゼンマイ、ワラビ、イタドリ、山の実などを食べながら仏の修行をされました。これらの何が食べれて、何が食べれないかを身を以って試され、人々に教えました。中馬街道は山の中の街道ですから、旅の途中にこれらを「山の恵み」として口にすることは多々あったはずです。あるいはお土産にしたかもしれません。旅人の中には木喰上人に感謝するため、少しばかりの寄り道をして墓参りをする人もいたことでしょう。
○日向
・樋の下から右へ曲がり、坂道を登り日向(ひよも)を経由して市場平へ向かう。途中、左下に井戸があり、水神さんが祀られています。この辺りが日向で、ここには大正2年まで日吉神社(日枝神社ともいう)があったということです。(日吉神社は、その後、水上神社に合祀)旅人はここで喉を潤しながら、水を補給しながら、水の有難さを思い浮かべてお祈りしたことでしょう。
○市場平
・市場平の中央に立派な常夜灯(文政4年(1821年)の刻印)があります。
・この辺りは小里からの道(ワラビ坂の道)との交差点で、人出も多く定期的に市場が開かれたといわれている所である。
・この辺りは丘の頂上部なので、日当たりは良く、風もよく通ると思います。したがって旅の途中の休憩にはもってこいの場所だったと思います。旅人は市場に並んだ商品の売主と、故郷の事やら家族の事やら旅の事やらをあれこれ言いながら一息ついたことでしょう。また、売主である村人も旅人から様々な情報を仕入れたことであろう。
・水上神社の東側に武士の墓「清源さん」がありました。「ありました」というのは、現在は末裔の小木曽さんにより引き墓されて、その場所にはないからです。武士の墓は水上の人々のお参りが絶えなかったということですから、旅人も思わず一緒になってお参りしたことと思います。それとも、「まあ、よっぽど偉い人の墓だな。おいらの村で言えば○○さんみたいなもんだな。」と出身地の村を思い出していたかも知れません。
○水上神社
・水上神社は、大正2年この地にあった諏訪神社、日向(ひよも)の日吉神社、田の尻の神明神社の3社を合祀した神社である。従って、それ以前にこの地にあったのは諏訪神社ということになる。水上の諏訪神社には慶長2年(1597年)の棟札があります。中馬の故郷は信州ですから、諏訪神社には思い入れも深かったと思います。旅の途中には必ず立ち寄って参拝したことと思います。
・水上神社の裏を通り、すぐに下って水上の旧道に出て滝坂へ。
・昔の道は神社の裏をもう少し直進(現在の共同墓地方向)して山中に入り、滝坂に下ったようです。
○滝坂
・天然記念物「はなの木」を左に見て田の尻方向へ下る
・この辺りを滝坂と呼ぶが、昔の道はもう少し右側の山中にあったようです。
・滝坂もまた吹越・水上関屋同様に水上村と大川村との村境に位置するので様々な石造物があります。
・滝坂の下り坂の途中、右の竹林の中に上記の行者様が祀られています。滝坂の行者様は、寛政9年(1797年)に水上村・大川村・曽木村の人によって、この地で行を積みながら村人の病気治癒の祈祷をして一生を終えたという行者様を祀られたということですから、この行者様の尊大なる徳が偲ばれます。村の人々には病気を治す行者様として信奉されていました。また、行者様は旅の安全も守ってくれるということですから、旅人は山中で、旅の安全と故郷に残した家族の病気治癒を願って手を合わせたことと思います。今は山中過ぎて訪れる人も少ないようですが…。
・製材所前を左折するのが中馬街道、直進は瑞浪小里方向へ
・製材所前、水上と大川の境のこの地には道標を兼ねた角柱の立派な道祖神があります。大正3年の刻印とともに、大川側に「三河瀬戸道」田の尻側に「瑞浪小里」の刻印がある。
○田の尻の庚申さん
・もちろん中馬街道は道標位置で左折ですが、ちょっと道をそれて瑞浪方向に直進してみたいと思います。慶長7年(1602年)大平村の加藤太郎右衛門景里が開いた田尻窯の跡があり、その近くに田の尻の庚申さんがあるからです。田の尻から水上の市場平への山道(ゴルフ場への道)の途中の左側に窯跡があり、右の林の中に庚申堂があります。庚申堂も開窯の頃に神明神社と共に建立され、陶祖加藤景里の子孫の方たちが長い年月お守りされています。残念なことは、本尊の十一面観音菩薩が大変貴重な文化財であったにも拘わらず、近年盗難にあってしまったようです。なお、この地にあった神明神社は大正2年に水上神社に合祀され、神明造りの社殿は水上の御嶽社に移築されたとのことです。田の尻道の脇には田の尻窯の累代の立派な墓があり、往時の隆盛ぶりを偲ぶことができます。
③ 大川地区
○旧水川保育園跡地
・道を水上方向へ戻り、道祖神にある「三河瀬戸道」方向に進むと、左にあるゲートボール場が水川尋常小学校(後に水川分校、さらに後に水川保育園)の跡地です。ゲートボール場の西側に昭和41年、水川分校を廃校して陶小学校に統合した時の「統合記念碑」があります。水上・大川地区の初老以上の方、特に大川地区の人にとっては統合記念碑というよりは様々な思いが詰まった聖地であった事を示す碑であることでしょう。また、跡地脇の道路側に面した所に馬頭観音が祀ってあります。この道を馬引きの人やら馬車が大勢往来したことを示しています。昔の生徒は学校への行き帰り、馬車の荷台に乗せてもらったり、馬引きの人と何やらおしゃべりしながら通学した事と思います。私は猿爪ですが、子供の頃、山岡町原の馬車(陶土を猿爪に運ぶ)に何度か乗せてもらった記憶があります。
○十三塚
・昔、ここには十三塚の地名になった小里家の臣下13人の墓がありました。明治の初めの地租改正の際、墓石を埋めてしまった。程なくこの地に大変な疫病がはやり、これは小里家臣下の祟りだと墓のあった場所に武士にゆかりの八剣神社を建て、霊を慰めたといいます。武士ゆかりの八剣神社が安産の神様なのは以下の言い伝えがあるからです。昔、中馬街道を旅する身重の夫婦がいた。大川十三塚辺りで女房が旅の途中に産気づき、途方に暮れた夫は近くの民家に女房を預け、藁をもすがる心境で近くにあった墓に無事の出産をただただお祈りした。夫の願いが通じたのか女房は無事に男の子を出産、ほどなく親子三人でまた旅に出発した。この話しが伝わり、この墓が明治になって「八剱神社」となっても、本来の祭神「倭建命(やまとたけるのみこと)」とは関係なく安産の神様となり現在に至っている(小木曽茂博さんの創作)
・十三塚からはウサギ岩を見ることができます。大正の初め、京都妙心寺の荻野管長が大川を訪れた際に、まさしく月に向って駆け上がるウサギに感嘆されたそうです。昔の主燃料は薪ですから山はハゲ山です。遮る木もなくてしっかり見えたことと思います。ここを通る旅人は、全ての人が、教えられなくても「あれはウサギ岩」と呼んだに違いありません。
○まきのそんで
・十三塚から八王子神社へ向かった辺りが「まきのそんで」です。変な地名です。大川の人に何でこんな地名?と聞いても明確な答えはありません。私が推察するに「そんで」はこの辺の方言で端っこという意味だから、昔、この辺りに大きな薪(まき)の貯蔵所があり、その端っこという意味だろうか。
・与左衛門窯手前の水野さん宅の前に「南無弘法大師巡拝供養塔」があります。大正4年の刻印があり、右明智岩村道・左小里瑞浪道の刻印もありますから道標も兼ねています。前にも述べたように、昔は経済的にも全ての人が参拝の旅には行けませんから一族の代表者、講仲間の代表者などが中馬街道を使って参拝の旅に出ました。巡礼を終えて無事帰村すると、参拝が成就したその証しとして地元に感謝の気持ちを表す道標を兼ねた供養塔を建てたのです。
・道路の右側の土手の中腹に高さ153cmもある立派な馬頭観音があります。三面八臂(三つの顔があり左右に八つの手を持つ)の立派な観音様です。大正10年の建立で、「観音の御徳仰ぎて諸ともに 祈るは慈悲の紀念なりけり」の記銘があります。この時代の馬引き仲間がお金を出し合い建立したようである。傍らに「観音」と記した碑もあります。その立派さから推察すると、農業のみの収入から馬引きにより収入を得ることができるようになり、自分たちの生活が向上したことを実感し、収入を手助けしてくれた馬に感謝をこめて建立したのであろう。
・現在のまきのそんでの道は、猿爪の平坂同様かなり掘り下げられている。したがって、上記の観音さんも道路脇にあったものが、今では土手の中腹にあるのであろう。もっと昔は、十三塚から森八さんの工場の前を通り、神社の裏方向に登り、神社を右に見ながら曽木方面に向かったようである。
○八王子神社
・大川八王子神社は寛永4年(1627年)創建の歴史ある神社である。
・鎮守の杜は大きな木に覆われており、旅人が日差しを避け休憩するには絶好の場所である。手洗いの水もある。旅人はここでひと休み、いや、体を横にしてひと眠りしたかもしれません。まだ世界一のこま犬はありませんが、神社内には羽柴与左衛門作の美濃焼狛犬5対が保存されているということですから旅人は狛犬に守られてひと眠りしていたことになります。但し、そのことを旅人が知っていたかどうかは?左の写真の灯篭は、中馬と同じ信州の石工(おそらく高遠の石工)により文化3年(1806年)建立されたものである。高さ3m以上ある大灯篭である。信州は優秀な石工を数多く輩出していますから、中馬の旅人は各地でこのような灯篭に出会い、故郷自慢をしたのではないでしょうか。それにしても、秋葉山、金毘羅山、牛頭天王(津島さん)、太神宮(皇大神宮)の記銘があります。昔の人は欲張り(4つも宮名を記している)だったなあとも思います。
・八王子神社辺りから南方向(小原方向)に双耳峰(2つの顕著なピークを持つ山)を見ることができます。この山が関東筑波の双耳峰に似ているということで、大川東窯の開祖である加藤左衛門尉景信の子孫が、景信の故郷である関東を偲び、この山の頂きに関東に数多くある富士山信仰の浅間神社を建立したと伝えられている。景信の故郷である相模からはよく見えたであろう富士山に思いを寄せて建てられた浅間神社には、名のある大工に創らせたであろう立派な彫り物で装飾された社があります。山には簡単には登れませんから、麓に里宮があります。旅人は、信州の奥の浅間山を思い、街道から少し寄り道して里宮にはお参りしたかもしれません。
・八王子神社辺りは大川盆地を一望にできる場所で、里山の景色を楽しむと同時に、浅間神社のある双耳峰を見て「かっこいい山だなあ。どこかで見たような気がする。神々しい。忘れられない景色だで。」と感心しながら歩を進めたことでしょう。
・神社下には現在の国道の右に急な下りの旧道があります。昭和の頃、瀬戸から明智に向かうバスが勢いをつけて突っ込まないと登れなかったという急坂です。その旧道の脇(右側)に珍しい六角の石幢(せきどう…六角または八角の柱状幢身と龕(がん)部 ・笠・宝珠などより成る)があります。各面には地蔵様が彫られているようです。明和5年(1766年)の建立だそうだから、長い間、中馬街道を利用する旅人を見守ってきたことになります。その付近には馬頭観音、地蔵菩薩など様々な石仏が見られ、この辺りが大川の人達にとって神聖な地であったことが伺われます。
○道下(八王子神社から曽木方向へ向かい下る)
・神社を下ると「川口屋」があります。川口屋という屋号は大川川と乱曽川の合流点近く(川の口)に屋敷があったことからきたようです。江戸の頃、川口屋の家主「新兵衛」は、岩村の殿様が籠の中から問いかけると、家から出る事なく座敷の中から答えたという大物だったそうです。(当時としてはもってのほかの行為)
・街道から外れますが、道下を右に曲がり大川川に沿って下る道は、七曲りの道が整備される前の大川から川折への道であり、馬頭観音等の石仏を見ることができます。この辺りの字名は下窯であり、昔(1600年頃)窯があったそうです。
・石仏群を更に下り、水上田の尻への道との交差点を過ぎ、更に川に沿って川折方面へ下ると、「すえまちむかしばなし」に出てくる「胴切り場」(この地に住み着いた厄介者の暴れん坊を村の若者衆が太刀で胴切りし、遺体は葬られることなく風雨にさらされた。という話)の舞台となった地があります。また、昔の村では荷物運搬用・農耕用に馬が飼われており、これらの馬が死ぬとこの地に捨てたので、上記の胴切り場辺りは馬捨て場でもあったようである。
・下窯から街道に戻り、曾木方向に曲がると直ぐに道下の水神様があります。昔の旅人はこれから登る乱曽坂に備えて、ここで喉をうるおし、瓢箪か竹筒の水筒に水を補給したかもしれません。
○乱曽
・乱曽の地名は「かって山崩れのあった所」の意味でしょうか。実際、昭和47年の集中豪雨の時にはこの辺りもかなりの被害があったようです。
・曽木村との村境に位置するので様々な石造物が多々あります。
上手玉喜著の「陶町の石造物」によると、この辺りには馬頭観音、聖観音を始め山神・氏神を含め約20体の石造物があるそうです。観音様の道行く旅人を優しく見守る姿は今も同じです。
○乱曽坂
・363号から曽木町欄仙への道に入り、すぐ左折し山中を西に向かい住久保に出るのが、かっての中馬街道です。この峠の山頂手前までが陶町で、そこを過ぎると曽木町である。
・小木曽文男さんは自著「中馬街道膝栗毛」の中で、乱曽坂を次のように唄っています。
 馬子の唄 乱れて流る乱曽坂 息も乱れて 裾も乱れ
 馬の背に 泊って休めよ 赤とんぼ
・乱曽坂の左の山を「呼ばりケ峰」と言うそうです。
「お~い 今帰ったぞ~」と麓の村に叫ぶ場所だったかです。
 昔は、数人が村を代表して代官所へ、あるいは神社参りに出かけました。田植えの前には雨乞いのお願いにも出かけました。その人が、村までもう少しというこの場所で、村人に一刻も早く無事な帰還を知らせたくて「お~い 今帰ったぞ~」と叫んだといことです。あるいは、出掛けの際にも「お~い 行ってくるぞ~」と叫んだかもしれません。
(陶町歴史ロマンより)

隣村の中馬街道

 中馬街道は江戸時代に信州飯田から陶町を通って瀬戸経由で尾張名古屋へ至る道です。信州から米・酒・煙草などを、尾張からは塩・陶磁器などを盛んに運びました。また、街道が整備されるにしたがって遠州の秋葉神社、お伊勢さんなど参詣の道としても利用されました。
 猿爪村の東は吉良見村で、その東が明智村です。吉良見村との間には吹越峠があり、現在は掘り下げた所を通っていますが、昔は山越えの難所でありました。吹越という地名は「風が吹き山を越える」から来ているそうです。
 吹越を越えてしばらく下ると「関屋口」というバス停がありますが、そこから旧道に入ると吉良見関屋の石仏群が見られます。
 ここは、小泉へとの分岐点ですから多くの石仏が見られます。
 吉良見の向こうの明智町では、大正村を紹介する中で明智町の常盤地区を中馬街道と南北街道(三河への道)が交差する古い町並みとして紹介しています。
 大川村の西は曽木村で、細野村へと続きます。曽木村との間には乱曽坂があり、旧街道には所々に案内看板が設置されています。土岐市の観光案内では、「かつての酒造りを営んだ庄屋さんの家がある大草辺りが旧道の雰囲気を最も残している。」と紹介しています。濃南(曽木・細野・柿野)地区では、陶地区の盆踊りでも定番となっている「中馬馬子唄」が保存会の人たちにより唄い継がれています。
 ネットで中馬街道について検索していると、かなり辛辣ではあるけど、それなりに的を得ていると思われる意見が載っていましたので要約を書き添えます。
 「この街道は、その昔にはかなりの往来があり、街道筋の瀬戸・柿野・明智などには宿もあり栄えたが、鉄道・高速道路・主要国道から外れてしまってからは、横の繋がりは完全に分離してしまった。瀬戸市は名古屋の衛星都市に、鶴里・曽木は土岐市の山間部、陶は瑞浪市の奥地に、明智・上矢作は恵那市の山間部となってしまい、往来は歴史のかなたへ消えてしまった。新東名で息を吹き返した遠州森など物流・交通の拠点を取り戻す動きが重要ではないのだろうか。」

道祖神

 『道祖神』は路傍の神であり、私たちには馴染みの深い神様である。
 旅の途中、いろいろな場所で「道祖神」と記した碑を見ることがあります。松尾芭蕉の「奥の細道」では旅に誘う神様として冒頭に登場します。旅にも様々な旅があり、旅の途中で出会う道祖神にはなんとなくロマンを、郷愁を感じます。
 道祖神は、旅の安全を守る神様でもありますが、元々は中国の神で、道中の安全と道案内を務める神でした。日本の神話に登場する猿田彦(高天原への道案内)とは同じ役になります。その神が日本の農耕社会の中で、村境や峠の道端に祀られ、悪霊・邪悪・病魔などが入り込まぬよう境を守る神、通行を守る神、田畑を守る神となり「道祖神」と呼ばれるようになったのです。近世では旅の安全、交通安全の神として信仰されているようです。
 陶の道祖神も中馬街道の往来が盛んなころ、窯関連の荷馬車の往来を、あるいは参詣講の旅人を、または遠く信州からの荷物を見守った事でしょう。
(もっと知ろう“陶”より)

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