土岐頼貞は足利尊氏に従い多くの戦功をあげ、室町幕府の初代美濃国守護に任じられた武将です。「土岐絶えば是(足利)絶ゆべし」、「御一家(足利一族)の次、諸家の頭・筆頭の将」と称されるほどの信任を得て、以後の土岐氏発展の基礎を築きました。
頼貞は、土岐町一日市場の館を美濃国支配の拠点とし、従五位下 伯耆神(ほうきのかみ)となり、暦応二年(1339)に六十九歳で没し、 一族の菩提寺である光善寺に葬られたと伝えられます。土岐町市原地区にある光善寺の伝承地には現在も道路の西側に五輪塔五基と宝篋印塔四基、東側には五輪塔十基が整然と並んでいますが、造営当初の詳細は明らかでありません。
道路西側の宝篋印塔のうち、一番奥(西側)に位置するものが頼貞の墓と伝えられており、基礎には「前伯州太守定林寺殿雲石孝公」「暦応二年己卯二月廿日亥刻逝去」の文字が彫られています。また、その他の石塔は累代や一族のものと伝えられ、特にこの宝篋印塔と、その奥に位置する五基の五輪塔は、岐阜県内でも最古に属する石造物とみられます。
土岐氏が当地との縁故を示す象徴として、また一族の繁栄を願って造営した墓地と推測され、岐阜県内でも極めて類例が少ない武士団の一族墓と考えられます。
頼貞は、頼政の下屋敷の在った一日市楊(瑞浪市土岐町)に屋敷を構え、その東の方、中島村(土岐町市原)に、光善寺という菩提寺を建立し、また屋敷の北には源氏の祖神 八幡宮を祀り、西北の地に真言宗 天徳寺を建て祈願所としました。




光善寺(興禅寺)
光善寺の創建については、建仁年中(1201~1204)(安元元年[1175]?)に美濃国守護になったといわれる土岐光衡が天台宗の光善寺をたて土岐氏の菩提寺とし、頼貞のとき禅宗に改めて「興禅寺」と称したとも、その父 光定(法名 興源寺殿)が建立したもので興源寺が光善寺と転化したのではないかなどともいわれている。光衡の法名が「光善寺殿西淳」であることからも、この光善寺は光衡が祖先および土岐氏累代の菩提寺(天台宗)として建立したものと推定されます。
頼貞はまた、破損のはげしかった可児郡御嵩町の願興寺の諸堂を修復して、経文の欠けたところを補ったといわれていますし、定林寺、永保寺、開元院、増福寺など東濃の数多くの寺は土岐氏の力によって興隆したものです。
昔、市原に光善寺と云う土岐頼貞の菩提寺があった事は、古書に伝えられています。
「美濃古道記」(木曾、園原旧富、撰)の内、「美濃下街道」の一節に、
興禅寺ノ古趾
土岐ノ城巽(たつみ)(東南)土岐川ノ東、城下ヨリ十町余
石碑、曰ク
前伯州太守定林寺殿雲石存公
暦応二年乙卯二月廿三日逝去
とあります。
光善寺のことは『濃飛両国史』に
美濃国に於ける、禅宗最初の保護者たりしは守護土岐頼貞なり。累代記によれば「土岐は代々天台宗なりけるが、中奥伯耆守頼貞入道分国土岐郡中島郷に光善寺を建て菩提寺とし給ふ、故に逝去の後遺骨を納む定林寺殿前伯州大守雲石存孝大居士是なり」といふ。今土岐村字中島に二十余基の五輪及び宝篋印塔あり。宝篋印塔の一に「定林寺殿雲石孝公暦応二巳卯年ニ月二十二日亥刻逝去」と銘するものあり、 これ光善寺の地なり。云々 とあり、
『土岐郡地誌』には
一、光善寺址及土岐氏先■、本町字市原中島地内に、土岐氏の菩提寺光善寺比及墓所がある。街道を挟んで東西に並ぶ。
内に五輪塔及び宝篋印塔計十三基あり『塔の形式から五輪塔は主として鎌倉時代、宝篋印塔は足利時代に行はれたものかと思ふ伝説に依れば光信以来頼貞に至る六世の墓所であると云ふ。
『土岐累代記』には
「土岐は代々天台宗なりけるが、中興 伯耆守(ほうきのかみ)頼貞入道、分国土岐郡中島郷に光善寺を建て菩提寺とし給う。故に逝去の後遺骨を納む、定林寺殿前伯州大守雲石存孝大居士是なり」とあります。
頼貞は早くから禅宗に帰依し、この地に禅宗を広めた功労者です。北条時宗に招かれて、鎌倉に円覚寺を建てた宋僧無学祖元(仏光国師)の高弟高峯顕日(仏国国師)を迎えて定林寺を建立し、土岐郡中島郷に興禅寺(光善寺)を創建したといわれます。さらに仏国国師の高弟 夢窓疎石・元翁本元(仏徳禅師)らが仏縁によって訪れており、正和二年(1313)虎渓山永保寺が開かれました。頼貞自身も入道して存孝と称しました。
天文二一~二二年(1552-53)にかけて甲斐の武田信玄がこの小笠原氏を破って信濃を制圧すると、小笠原氏に属していた恵那地方も当然のように武田氏の勢力下に入りました。
武田氏は余勢をかって東濃西部へも侵入し、永禄元年(1558)には光善寺・明白寺・定林寺を焼いたといわれています。
光善寺は、土岐頼貞の墓地の北側に建てられていたと予想され、廃寺となった跡には観音堂が建てられていました。
明治二十一年頃、現在の、はらこ橋から桜堂へ往来する道は曲りくねっていたのを、現在の様な直線的な道に改良されたために観音堂は取り壊され、墓地も現在の様に、道路の東西に分断されてしまいました。







































