美濃源氏の誇り・土岐頼兼
〜「正中の変」に散った悲劇の武将〜
■ 頼兼の生い立ちと居城
土岐頼兼は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した美濃源氏・土岐氏の武将です。のちに室町幕府の初代美濃守護となる土岐頼貞(よりさだ)の第十子として、永仁3年(1295年)に土岐郷の一日市場館で誕生しました。 母は鎌倉幕府第8代執権・北条貞時の娘(あるいは平宗頼の娘)と伝わり、文武両道に秀でた血気盛んな若武者でした。成長した頼兼は、土岐氏の重要拠点である鶴ケ城(神箆城:岐阜県瑞浪市)の城主を務めました。



■ 鎌倉幕府打倒の密命(正中の変)
時代は鎌倉幕府の権威が衰えつつある元亨〜正中年間。後醍醐天皇は密かに鎌倉幕府打倒と皇政復古を企て、全国の有力武将に呼びかけを行いました。 美濃の有力豪族であった土岐氏にも、日野資朝らを通じて天皇からの密命(令旨)が下ります。しかし、父・頼貞は北条氏と深い縁戚関係にあったため、一族の安全を考慮して自らは動かず、若干28歳の頼兼を名代(総大将)として上京させる決断を下しました。
■ 痛恨の裏切りと壮絶な最期
正中元年(1324年)、頼兼は副将の多治見四郎次郎国長をはじめ、尾里、萩原、深沢、猿子など土岐一族の精鋭たちを率いて上京し、京都の三条堀川にある土岐館に入って討幕の密議を重ねました。 しかし、一族の舟木頼春(左近蔵人頼員)が、妻の父である六波羅奉行・斎藤太郎左衛門尉利行に計画を密告してしまいます。
同年9月19日の早朝、頼兼らの宿所は、六波羅探題の軍勢数千騎による急襲を受けます。不意を突かれた頼兼は、太刀を取って敵を斬り伏せるなど激しく応戦しましたが、多勢に無勢であることを悟り、寝室に退いて腹を十文字に切り裂き、見事な自刃を遂げました。享年28。この一連の事件を歴史上「正中の変」と呼びます。

■ 主君を想う忠臣「根竹十郎」の伝説
頼兼と多治見国長の首級は、見せしめとして京都の三条河原に晒されました。 しかし、頼兼の忠臣であった**根竹十郎(又十郎)が夜陰に乗じて主君の首を奪い返し、南禅寺で回向(供養)を頼んだのち、遠く離れた故郷・美濃の鶴ケ城まで持ち帰りました。根竹十郎は城の東にある洞窟に首を埋葬し、自身もその場で切腹して主君の後を追いました。 現在、この場所は「自偲洞(じじんぼら)」「自偲塚」と呼ばれ、苔むした宝篋印塔と五輪塔がひっそりと立ち並び、瑞浪市の指定史跡となっています。



また、悲劇は娘にも及び、頼兼の娘である「笹於姫」も一族郎党とともに落のびようとしたものの、追っ手に囲まれ自刃したという哀しい伝承も残されています。



■ 後世への影響と顕彰
頼兼らの討幕計画は失敗に終わりましたが、彼らが命を賭して示した「勤皇の志」と勇気は全国の武士たちを目覚めさせ、その後の「元弘の乱」や「建武の新政」を引き起こす大きな原動力となりました。
時代が下った明治38年(1905年)、その忠烈が高く評価され、頼兼には正四位が追贈されました。現在、彼が居城とした鶴ケ城跡の山頂(千畳敷)には、頼兼を祭神として祀る**「土岐神社(土岐頼兼神社)」**が建立され、郷土の英雄として今もなお地域の人々に深く敬われています。



■常盤姫伝説
常盤姫(ときわひめ)は、今から約700年前に明智の豪族の娘として生まれ、この地を治めていた武将・土岐頼兼(とき よりかね)の妻となった女性です。
常盤姫については、瑞浪市にある「耳木(みみのき)神社」の創建の由来として、次のような悲劇的な言い伝えが残されています。
- 家臣の誤解と悲しい最期: ある時、常盤姫の衣が擦れる音を、家臣たちが「おならの音」と聞き間違えて嘲笑しました。姫はこのことを深く苦にし、川に身を投げて自ら命を絶ってしまいました。その淵を「常盤渕」と呼ばれるようになりました。
- 杉の若木による潔白の証明: 姫は身を投げる際、杖として使っていた杉の若木を川岸に突き刺して置きました。その後、その若木がしっかりと根づいたのを見た人々は、姫の身の潔白を知ることになります。後に「常盤杉」と呼ばれていましたが枯れてしまいました。
- 耳木神社の建立: 人々は自分たちの「耳の誤り」を深く恥じ、戒めと慰霊のためにその場所に「耳木神社」を建てました。

この言い伝えを持つ耳木神社は、現在も耳の病を治してくれるだけでなく、「ものを正しく聞くことの大切さ」を教えてくれる神社として信仰を集めています。



