御本尊:聖観世音菩薩(薬師如来)
宗 派:臨済宗妙心寺派
古くは月之宮の神宮寺と伝えられ、慶長年(1596-1615)中再建といわれていますが詳細は不明です。
大応寺 創建由緒に「慶安四辛卯年(1651)正月五日、月吉に大応寺と申す寺号を聞き候」とあります。
開基は成瀬七良左衛門と山内庄右衛門(成瀬氏の妻の弟)とされています。
瑞林寺第八世伝宗和尚の法系、山の上村普門寺の弟子亀獄和尚が招かれて、森下の成瀬氏の書院を小庵とし、山内庄右衛門の力をかりて明暦三年(1657)瑞林寺七世伝宗和尚により再創されました。
仙獄和尚の代に中興、文化三年(1806)瑞巌和尚の時庫裡が全焼、文化五年(1808)過去帖作成、教嵒(がん・げん)和尚の代に再中興、教宗和尚代に三中興されています。
御詠歌
ありあけの 白梅かおる 観音堂
きょうのしあわせ 守らせたまえ
納経所碑(納経塔)(旬歌碑)
(慶応3(2?)年・1867・納経塔・納経所・自然石[西行歌碑])
大応寺入ロにあって、納経所と大書された自然石碑の下部に西行の歌が刻まれています。
(濃州狗行記・美濃御坂越記・月吉大応寺 日吉本郷歌碑)
よる昼の さかいはここに 有明けの 月吉日吉 里をならべて
西行法師(平安末期1117~1190)
造立者は地元の山内儀助(山内儀右衛門道之)です。
西行法師
【1118年(元永元年)~1190年(文治6年)】
円位上人こと西行は、元永元年(1118年)、父-佐藤康清、母-源清経の娘との間に生まれました。俗名は佐藤義清、鳥羽上皇にも仕えた北面の武士であり、武術だけでなく和歌にも長けており崇徳上皇とも親交があった人物です。
23歳の時に妻子を捨てて出家し「円位」と名のり、後に「西行」と称しました。出家後は,河内国の弘川寺で入寂するまでの間,心のおもむくまま平安近郊,高野山,伊勢,吉野,善通寺などに草庵を結ぶなど,しばしば諸国をめぐり漂泊の旅に出て多くの和歌を残しました。
刻経塔(宝篋印塔)
(元文2年・1737・刻経塔・四面種子と四面陀羅尼文)
大応寺の刻経塔は全高2.6m、塔身四面には梵字で金剛会の四仏が刻まれており、台座部の四面には288文字の陀羅尼文がそれぞれ刻まれ、基礎部に「奉建立為菩薩(両親の戒名) 元文二丁巳九月 願主山内氏」とある先祖の菩提供養のためのもので、典型的な塔型の刻経塔です。
月之塔(月天子塔)(月待塔)(二十二夜・二十三夜碑)
(寛政11年・1799・月之塔・月天子宝殿・勢至菩薩・塔身は火袋・露盤部に三仏)
この全高4m余の大きくて美しい月之塔の造立時の棟札が発見され、「雲松山大応寺現住祖戒 寛政十戊午年珠日 石工信州住人中谷幸蔵」、棟札に「月天子宝殿建立 施主十方壇家」とあり、塔身には「月」と三尊が彫られている立派なものです。
寛政11年(1799)二十三夜月待の主尊の勢至菩薩(せいしぼさつ)の宝塔として信州高遠石匠の中谷幸蔵氏の手によって造立されたものです。
塔の中程の二重の蓮が非常に巧みに彫られているとのことで、機械に頼る現代の彫刻家では難しいと称賛されています。
観音堂
昭和56年5月再建された二間四方の観音堂です。西国三十三所の観世音、弘法大師等の仏像が祀ってあります。
薬師如来石像
(安政5年・1858・角柱塔・浮彫り・坐・薬壷印)
明世町大応寺の薬師如来石像は、二十三夜月待塔の前に祀られているもので、角柱塔の上部に浮彫りされ「薬師如来 安政五午四月」とある薬壷(やくこ)印の坐像です。
地蔵菩薩石像
(享保9年・1724・光・立・墓碑地蔵ら五体あり)
山門
山門は約百八十年前萬場家の三代目山内政右衛門幾道の一基進で再建されたものである。屋根棟の表側に山内の紋の三つ柏が二つと裏側に政の字が二つ入っている。昭和五十六年八月に屋根の茸き替えを行ったが、当時の瓦をそのまま使って葺き替えることが出来た。竪牢な造りで大応寺の建築では一番古いものである。
鐘楼
梵鐘は昭和四十四年十月明治百年記念に、世界平和を祈願し棟信徒の浄財で再鋳された。妙心寺の国宝黄鐘調の鐘を模したもので、形も大きさもほぼ同じで重さは百六十貫ある。当時の管長さん梶浦逸外老師の直筆の銘が入っている。先住善教和尚と梵鐘の権威者中川正和氏(桑名市)は妙心寺へ行き日本最古の黄鐘調の鐘を綿密に調べた上で鋳造したものである。
境内灯篭
(享保20年・1735・対・円・奉寄進山内儀右衛門)
水 鉢
(享保20年・1735・奉寄進・山内儀右衛門)
宝篋印塔
(一基・武田大膳太夫信晴(信玄)の供養塔と伝う 中型)
心の池 弁天様
山門の右下には「心の池」があり、中央の岩の上には石造の弁天様が祀ってある。