全源山 興徳寺
御本尊:釈迦如来(迦葉尊者 阿難尊者)
宗 派:臨済宗妙心寺派
御詠歌
タやけに ほんのり赤き 興徳寺
つつがなき世の 入りあいのかね
慶長5年(1600)関ヶ原合戦に、東軍に味方して戦功のあった小里助右衛門光明が、翌6(1601)年9月に亡くなると、興徳寺殿大雲玄功居士と贈名し、孫の光親公はその菩堤を弔うため、城山の麓近くの川の辺りに興徳寺を建立しました。
開山和尚は不詳、大徹法源禅師を勧請開山としました。寺領28石8斗を附せられたといいます。
慶長14年(1609)8月大洪水のため堂宇も住僧も流されてしまい、慶長十六年(1611)大蔵寺の跡に寺を再建されました。
元和7年(1621)光親が亡くなり、小家を継いだその子の光重公も元和9年(1623)若死にして小里家は絶えてしまい、寺も無住となり、方丈も庫裡も荒れてしまったといわれます。
寛永16年(1639)全源和尚という修業僧が小里を訪れこの寺をみて、全源山という額の山号に、自分と同じ名に宿縁を感じて住寺し、全源和尚を中興の祖として現在まで連綿と続きます。
元禄九年(1696)[天明六年・1786?]焼失し、宝永元年(1704)に再建されました。
市原の禅鉢寺・須之宮の陽光寺(廃寺)・小里の永泉寺(廃寺)を系下においていました。
陽光寺は桜ヶ丘団地入口の墓地の一角にありました。寛永16年(1639)から延宝3年(1675)頃に興徳寺の全源和尚が創建し、明治5年(1872)に廃寺になったと伝えられています。
禅鉢寺は当初天台系と伝えられ、近世では興徳寺 大徹法源を勧請開山、義山祖拭を中興とし、その時期は正徳三年(1713)といわれています。
木造菅公像(県・市指定重要文化財)
旧大蔵寺から興徳寺へ伝承されたものに、桧材の寄木造りで衣冠東帯持芴の彩色、彫眼の菅公像(天神様、学問の神様)があります。鎌倉後期の作で、胎内墨書銘に「天満大自在天神 願主能登守源頼幸 大仏師法橋宗慶作之 延文二年(1357)丁酉卯月」とあり、高さ35センチメートルの座像です。願主頼幸は稲津地区に関係した土岐一族、または旧小里氏の一人と考えられますが土岐氏の系図の中にはその名はありません。ただこの時期に頼兼の孫に頼孝があり、稲津地区もその所領地としていたことが考えられるので、この頼孝と頼幸は同一人物ではないかといわれています。
茶壷
蔵野住人 加藤左衛門が、文明七年(1476)に陶の地に窯を築いたのが始まりです。元禄(1688~1704)まで盛んに生産され、左衛門の四代の孫は、与左衛門景度(かげのり)と名のり、彼の窯で焼いた製品は、『与左焼』とよばれました。
稲津の興徳寺に与左衛門の刻印のある壺が現存しています。また、陶町大川の八王子神社にも、狛犬が保存されています。
ギネス認定の世界一の茶壷の原型となった景度の作品は興徳寺に茶壷、八王子神社に狛犬が残っています。
恭邦和尚供養塔
興徳寺11世恭邦和尚は稲津の殖産興業に尽力された人で、和尚は、①豊かな扉風山の水を引いて、棚田山、ーツ橋、平岩あたりの農地をうるおした根の上用水の難工事②陶土製造の技術革新である千本杵搗き法の開発に指導的な役割を果されました。
高110cm
刻銘
塔身に
恭邦
無縫塔のようであるが塔身は円扇平石です。
恭邦和尚の根の上用水工事
嘉永年間(1848~53)この地方に非常な凶作と共に飢謹がおきました。根の上用水は興徳寺11世の恭邦和尚が打続く飢饉から村人を救うため、小里村の庄屋 和田亀右エ門にはかり、涸れることのない扉風山(笹平川)の水を小里(ーツ橋,平岩,棚田山)の田に引くことを思い立ち、村民の全面的な協力を得て建設したものである。この用水路は、土木技術が未発達な時代に100m近い2ケ所のトンネルを掘り、山腹に約4kmの用水路を掘るなど難工事の連続であり、完成したのは嘉永2年(1859)のことである。昭和30年代に至ってその使命を終えたが、この間約120年にわたり受水域の農民に大きな恩恵を与えた。
恭邦和尚の千本杵搗開発
陶器をつくる過程で釉薬をかけることを施釉(せゆう)といいます。釉薬の原料は陶器は、木炭・わら灰が主原料でしたが、磁器になると長石・珪石(けいせき)・石灰石が主原料になり、原料が石になると唐臼(からうす)を使って人の手で搗くという方法では良質なものが生産できず供給不足となりました。
興徳寺恭邦和尚と和田亀右衛門、井箆六兵衛、小木曽定平、和田政七清氏により、水車の千本杵搗(せんぼんきねびき)が創案されました。水車により何本もの杵を上下させ石をついて粉砕するので量産できるようになりました。石粉(いしこ)はたきといわれる水車稼(かせぎ)は急速に広まり専業化しました。嘉永三年(1850)に小里村字三角に水車小屋を建て、石粉の生産を始めました。
笠原川・生田川・妻木川・小里川等土岐川支流に水車小屋が造立されました。その総数125輔(りょう)180名の水車稼人が生まれました。絵付の原料紺青(こんじょう)は、妻木・土岐津・肥田・下石の紺青稼人が採掘し、大正に入り専業化となりました。
馬頭観音
如意輪観音
興徳寺の杉
興徳寺は慶長6年(1601)に小里城主の菩提寺として小里川沿いに建立されました。しかし、その後、10年もたたない内に大水のため寺が流され、今の地 大蔵寺(だいぞうじ)跡に移ってきました。参道のあたりは大蔵寺の時のまま残されており、この3本の杉もその時のものです。
かつてここの杉は4本ありました。しかし一番下にあった杉が枯れてしまい、30年前に伐られました。その時に年輪を数えたら、360までは数えることができたそうです。残った3本のうち、一番太いものは樹令500年と推定されるとのことです。平成19年(2007)10月、庫裏(くり)の建て直しの時に入口あたりが整備されました。周りの雑木が取り除かれたため見通しが良くなり、3本の杉の木がそびえ立つ姿がはっきりと見えるようになりました。
鐘鋳場(かねいば)
興徳寺より南に500mぐらいのところに鐘鋳場と呼ばれるところがあります。ここで興徳寺の梵鐘を鋳造したといわれています。古記録に「寛延4年(1751) 3月12日鐘鋳造」と「3月20日興徳寺鐘供養」と書かれている。しかし、この鐘は昭和18年(1943)戦時の金属不足を補うため、各寺院の梵鐘とともに供出されてしまった。
文字五輪塔
(寛永12年・1635・の文字五輪碑、小里一族のものか 石碑)
板碑型 37x92cm
刻銘
空風火水地
天遊永寿禅定尼
寛永拾弐亥(一六三五)十一月拾六日
四角型燈寵
山神祠
小里興徳寺霊園西道路脇
切妻型
刻銘
山神
紀年銘 なし
社寺号標石
延命地蔵
舟形光背(頭光)浮彫立像(墓塔)
小里興徳寺境内
高64cm
刻銘
明和九(一七七二)三月廿日
□禅定尼
石段
追善供養塔
主尊 阿弥陀如来丸彫坐像
小里興徳寺境内
高33cm
請花座高21cm
台石 自然石
43x82cm
刻銘
台石に
桂林常昌大姉
延享四卯季(一七四七)十一月十五日
六地蔵
小里興徳寺西墓地
舟形光背浮彫立像
高60~63cm
紀年銘なし
〇仏像の持ち物
・地持(護讃)地蔵
両手で念珠を持つ
・陀羅尼(弁尼)地蔵
右手施無畏印
左手引摂印
・宝性(破勝)地蔵
地蔵
合唱
・鶏亀(延命)地蔵
右手錫杖
左手如意珠
・法性(不休息)地蔵
両手で柄香炉を持つ
・法印(讃竜)地蔵
両手で憧幡を持つ
読誦(どくじゅ)塔
角柱石
小里興徳寺境内
24x24x67cm
刻銘
奉読誦大乗妙典千部
宝暦十三奏未(1763)仲春一蓂(二月一日)
阿弥陀如来供養塔
(念仏供養)自然石加エ
小里興徳寺境内
49×98
刻銘
帰命無量寿如来
明和三天(1766)三月吉辰
連中十三人
阿弥陀如来供養塔
(念仏供養)自然石
小里興徳寺境内
47x110cm
刻銘
帰命無量寿如来
享保十九寅年(1734)初夜念仏供養塔
寛延四未(1751)七月十五日終
連中四十二人
内早世以下不明