■ 三十三霊場

【美濃瑞浪三十三霊場 第12番】見宗山 普済寺 瑞浪市稲津町萩原

御本尊:十一面観世音菩薩
宗 派:臨済宗妙心寺派

 この寺は鎌倉・南北朝時代の名僧 夢窓国師が、観応三年(1352)開山したと伝えられています。
 当初、萩原河原に建てられていましたが江戸時代に災禍にあい、正保三年(1646)小田 正宗寺の達道珍公首座によって、現在地に再建中興されたといわれています。
 「中興貞領首座・二世教翁伝首座・三世常主座 節元和尚 延亨三年(1746)二十三回忌」と、過去帳に記載されていますが、他詳細は不明です。
 明治五年(1872)に明治維新の廃仏棄釈の風潮に、萩原村は神道に改宗され檀徒を失ってしまいました。
 昭和十八年(1943)に住職が亡くなると、その後は、正宗寺・信光寺・興徳寺が兼務住職となり、現在に至っています。

御詠歌
ながき世の くしきうつろい 普済でら
  のりのみ光り いまにつたえて



夢窓国師

 瑞浪市の心宗寺、普済寺は、国師の開山。永保寺は、国師が開基。臨済宗南禅寺派の名刹。国宝の開山堂には、夢窓国師、仏徳禅師の坐像が安置されています。足利尊氏が、後醍醐天皇の冥福を祈るため、夢窓国師を開山として天竜寺を建立。近くの臨川寺に夢窓国師の墓があり、その上に本堂が建てられている。夢窓国師は、当時の臨済禅の大指導者であった。


廃仏毀釈

 仏法を廃し、釈尊の教えを廃棄すること。明治元年、政府の神仏分離令が布告され、その影響で廃仏毀釈が起きた。それは、瑞浪にも及び稲津町所在の「普済寺」の掲示板由緒書において、「萩原村、一村離檀、神道に改宗し、寺は檀家を失った」と書かれている。また、昭和二十年、GHQによって「国家神道」廃止を指令、昭和二十一年、神社は宗教法人扱いとなった。


見宗山の観音堂

 この観音堂は、江戸時代中期の宝暦五年(1755)3月8日観世音菩薩を萩原の地釜土山に祀ったと棟札があります。堂には西国霊場三十三所観音様が祀られていて、その後昭和54年普済寺境内に移築し、見宗山の観音堂と称えられ現在に至っています。


庚申(青面金剛)石像

萩原普済寺辻
(年号不詳・文字碑・南無青面金剛王)
 普済寺前の辻のものは高さ1.1m、巾80cmの一部加工の石に「南無青面金剛王」とある市内唯一の青面金剛文字碑です。


合掌観音(三十三観音の内)

(宝暦四年・1754)
舟形光背浮彫立像
萩原普済寺墓地
高59cm
 宝暦四甲戊十月十八日


三界萬霊塔

(安永五年・1776・角柱塔・三界万霊・当村夜念仏連中)
萩原普済寺参道脇
角柱石 27x27x128cm
 稲津町普済寺入ロのものは、大型の角柱塔に大書されたもので「安永五丙申年仲夏 当村夜念仏連中」とあり、萩原の熱心な夜念仏連中による造立です。
 三界萬霊
 安永五丙申年仲夏
 当村
 夜念仏連中


山神

(文化十一年・1814)
流造型 74cm
 山明神
 岱獄代
 文化十一戊七月


聖号碑

(文化十二年・1815ころか・自然石・七字聖号・観音講中)
普済寺道
 萩原普済寺道のものは大型の自然石にクマドリがされて同じく七字聖号と「観音講中」とあるもです。


端泉和尚供養塔

(天保六年・1835入滅)
自然石 50x110cm
岱獄創和尚禅師
紀年銘なし
 普済寺十四代端泉和尚の生家は市内大湫町江戸屋 天保六年正月五日入滅


弘法大師像

(嘉永三年・1850)
丸彫坐像 高124cm(台石以上) 台石 37x37cm
 台石に一膽一礼
 抜苦興楽
 嘉永三庚戊年如意珠日
「右手首より欠損」


地蔵菩薩

(嘉永三年・1850・丸・坐・右錫杖(しゃくじょう)・左宝珠・偶文)
 普済寺入ロの嘉永三年のものは、立派な台坐の上に安置された珍らしい丸彫り坐像で「一膽一礼 抜苦与楽」の偶文が大書されている尊像です。


馬頭観音

(江戸時代・文字碑・馬頭観世音菩薩・境内)


馬頭観音文字塔

自然石
24x49cm
 馬頭観世
 音井
 紀年銘なし


無縫塔

萩原普済寺墓地
単制 80cm 基礎 四角
塔身刻銘
 普山珂和尚大禅師

無縫塔

67cm 基礎 四角
塔身刻銘
 濁應雄和尚禅師


手洗石

自然石加工
60x42x60cm
刻銘 なし


馬頭観音

舟形光背浮彫立像
高48cm
刻銘 なし


普済寺の銀杏

 明治五年(1872)の廃仏毀釈により萩原村は神道に改宗し檀家がいなくなりました。しばらくは住職が、境内にあるギンナンをわらのむしろの袋に入れて売ったりして法灯を護っていましたが、昭和十八年(1943)からは無住となりました。
 現在では、寺域や建物はマレツトゴルフ場や集会場などとして地域住民に大いに活用されています。
 銀杏は境内の鐘つき堂の横に雌木があり、トイレの横には雄木が立っています。秋には黄金色に輝き、上平辺りを歩いているとこの普済寺が分かるほどです。今もたくさんのギンナンがなり、近隣の人たちが拾って秋の味覚を楽しんでいます。


大牧 元地蔵寺本尊

 夢窓国師創建小堂の後の中世の代官寺が廃絶し、元禄十六年(1703)太田の祐泉寺より聾登(ろうどう)和尚徒弟祖元和尚が来て、地蔵寺として再建し地蔵菩薩を本尊としたが、天保年間以降無住となって、明治に至り廃絶し、普済寺に合併したという。
 その後、地蔵堂を再建して本尊を祀った。世に伽羅仏といい、今は大牧の集会所に祀り、お詣りしている。仏像は身の丈2尺3寸1分で、材は伽羅というが風化もひどく断定できない。寺の旧跡は、大牧地区の墓地となっている。

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