明治初期、酒井・水野の両人が、大草地内にある粘土をもって共同で焼瓦の製作に着手したのが「大草瓦」の始まりです。明治23年(1890)には5戸、品質の高さで、最盛期には10数戸が携わる山間地のー大産業でした。瓦生産は、出資は地元、技術は三河との分業制で、多くの季節労働者がいたと伝えられています。この史実を後世に残すために、明治百年の記念事業として、昭和43年(1968)に大草顕彰会により、この瓦祖碑が建てられました。現在では、大草の瓦製造は廃業となってしまいました。
(土岐地区 郷土再発見より)
大草瓦
明治初年大草村で瓦製造が開始されました。この地区は瓦に適した粘土層であったところから、酒井佐右衛門が研究を重ね、尾張国知多郡の水野小三郎が妻木村に在職していることを聞いて招き寄せ、瓦製造を創業しました。
明治七年の「大草組書留帳」に、
瓦窯二基、一基に付き運上一円の事、
としるされています。
酒井は大草瓦が三河風で耐寒力に富むことを宣伝し、需要はますます増加しました。
明治20~23年ころまでの生産高調査によると、「製造戸数、大草五戸、萩原三戸」、「年産20~30万枚」となり、大正・昭和の初期には販路を広め、長野県方面まで発送されるようになりました。
明治初年に土岐大草瓦が盛んになると、瓦製狛犬も奉納されるようになり、地元大草若宮八幡神社の「伊藤勇助・源十作」のものをはじめ、市原白山神社の明治十三年の 「大草水野市次作」、下沢白山神社の鵜飼・稲垣氏奉納による「大草水野小三郎作」、上小田八剣神社の明治期作と思われるものなどがみられるようになり、郷土における陶芸・工芸品としての作陶の歩みを知ることができる。