神田宮(月吉)霊神宮(月吉羽根)
近世郷村の成立当時月吉村は小里領に属し小里家断絶後は天領となり総石高は四六一・三九石で、明治の初めに戸数百余、人口五百余とあり、現今でも、戸数一三〇人口六五〇と余り変化はなく、純農村形態である。
神田宮の大きさは、総高六五cm、塔身巾は二六・五cmで神田宮の外は刻銘なし。
霊神宮は日吉道の途中、姫塚の北隣りで、総高一二〇cm、塔身巾三一cm、屋根はタルギ付彫り正面十一本、両横は八本くばりである。山の神の初めに述べた如く、春から秋まで田の神が神田宮におられ、五穀豊じょうを見守り、秋から冬、春にかけては山の神となって、霊神宮に遷座され休まれたのではなかろうか。石詞の右側に「月吉村施主山内道之立之」と刻銘がある。建立は享保年間ではなかろうか?
旧道は日吉川の左岸を通っていました。川を南の羽根側へ越すと神田宮石詞があり、東北の山裾へ進むと井ロのミコ塚古墳群のもとに立派な霊神宮石詞が建てられています。
ミコ塚古墳群
明世月吉字山田・井口
5基あるうち、1号墳は現存、2号墳は削平のため消滅、3・4・5号墳は生い茂げる潅木に阻まれて、その存否を確認することができなかった。
1号墳は霊神宮の石祠の南20mの木立の中にある。墳丘の径15m、高さ2m、南面するところが崩壊している。墳頂部に0.4X0.8×0.4mの柱状の石をはじめ大石3個が露出している。昭和30年代には奥壁が直立して残っていたらしい。
2-5号墳について、36年調書はつぎのように記録している。
2号墳 径9mノ円墳、封土周囲ノミ残ル、石室完全ニ掘ラレ、石材散乱ス。
3号墳 封土全ク流失シ、葺石ノミ四周ニ残ル、須恵器数片収集ス。
4号墳 封土全ク流失シ、葺石ノミ四周ニ残ル、須恵器数片収集ス。
5号墳 径lOm ノ円墳、封土周囲ニノミ稍残リ石材散乱ス、石室完全ニ掘ラル(スケッチによると墳頂に1X0.6mの板石があり、山の斜面に立地している古墳であるらしい)。
(瑞浪市の古墳と古東山道より)
水神・山の神は各所に各種のものがみられ、変わったものでは金神(柄石)・光神(常道)・霊神宮(月吉)・神田宮(同)・元祖霊(同)・瘡神(下小田)・御尺神(市原)のほか塞の神を「妻の神」としたものなどもあって当時の庶民たちの一家安泰・村中繁栄・無病息災によせた心願の程を知ることができる。