■ 中山道

細久手宿 大黒屋旅館 瑞浪市日吉町細久手

 中山道細久手宿にある、かつての尾州家定本陣です。現在の建物は、安政6(1859)年に再建されたものです。本卯建・玄関門・式台・上段の間なども往時のままに残っています。
 玄関にはいくつものツバメの巣があり、階段の上には、70年前に割れたガラス窓から蜂が出入りして作った巣が今も下がっています。
 いまも料理旅館を営んで、山の幸、川の幸を愉しんでいただけます。

瑞浪市日吉町7905-1
TEL0572-69-2518
駐車場  有
中央自動車道瑞浪ICから15分 JR瑞浪駅よりタクシー15分




細久手宿 巻藁船提灯祭


※現在後継者不足のため、祭りは中止になっています。



細久手宿 大黒屋旅館

尾州家定本陣大黒屋酒井家

 中町北(右)手の尾州家定(さだめ)本陣大黒屋酒井家は宿の問屋役も勤め、宿の本陣・脇本陣が他宿に比べて手狭であったこともあり、尾州藩の定本陣となったもので、本陣・脇本陣に次ぐ建物であった。
 そのため玄関門・式台・上段之間なども許され、屋根には本卯(うだつ)建もあり、部屋々々もそのまま保存されていて往時を偲ぶことができ貴重である。

(瑞浪市の中仙道ガイドブックより)


大黒屋  安政6年(1859)築

 細久手宿は、本陣、脇本陣がやや手狭であったことと、尾州家が他の藩と合い宿のとき他の領主に迷惑がかかることをさけて、大黒屋を尾州家定本陣としていました。卯建、玄関門、式台、上段の間、部屋には、細久手出身で尾張徳川家のお抱え総師となった小木曽文洲の掛け軸があります。

(細久手宿より)


大黒屋

 天保14年(1843)の記録では、65軒のうち24軒が旅籠。その1軒が「尾州家定本陣大大黒屋」。今も旅館が続けられている。
問/TEL0572-69-2518

(中仙道ぶらり歩記より)


細久手宿の概要

 標高約420m、瑞浪市日吉町に所在する江戸から48番目、京都から22番目の宿場である。江戸へ約92里、京都へ約42里、東の大湫宿までは1里半、西の御嵩宿までは3里である。
 尾張藩の山村氏領地で定人馬は当初10人25疋、後25人25疋となったが、宿高が無高であったことから、人馬を提供させるために加宿として白倉(しらくら)・本郷・深沢・田高戸(たこうど)・平岩(いずれも現在の日吉町:1089石)という5箇村が定められていた。
 また、助郷村には南垣外(みなみがいと)・本郷・白倉・宿・宿洞・北野・田高戸・平岩・深沢・松野・志月(しづき)(以上日吉郷)・山之内・月吉・戸狩(現:瑞浪市)、河合・肥田・定林寺・浅野・久尻・大富・下石(おろし)・高山・土岐口(現:土岐市)、上之郷の2郷12箇村で10,270石(文政以前は10,242石)が定められ、臨時の大行列に備えた。
 村の行政については、本陣は白倉から出た小栗氏が世襲し、脇本陣についても同一族が世襲した。問屋は二人制で、本陣兼務の小栗氏と平岩から出た酒井氏が世襲し、名主(庄屋)についても本陣の小栗氏が兼ねていたとされる。また宿場にはこの他に「尾張藩定本陣」である問屋酒井家宅があり、現在も当時の旅籠名である「大黒屋」として営業を続けている。尾張藩以外の大名も予備本陣として休泊したとされるこの建物は、往時の面影を残す建物が少なくなった細久手宿において貴重な文化財である。
 上記のように無高であった細久手宿は設置当初から経済的に困窮し、延宝9(1681)年に御救金30両3分、天和2(1682)年に50両、同4年からは年々30両が支給された。また、領主の尾張藩からも享保元(1716)年に100両が支給されるなど、宿場の維持には多額の費用を要した。

大黒屋旅館(酒井家)主屋【国登録文化財】

 細久手宿のほぼ中央北側に所在する、現在も旅館「大黒屋」として経営を続ける建物である。当主は宿場設置の際に平岩(日吉町)から出た酒井氏で、本陣兼務の小栗氏とともに代々問屋を勤めた。細久手宿の本陣と脇本陣が他宿に比べて手狭であったこと、また他の大名等との合宿を嫌った尾張藩がこれを「尾張藩定本陣」として使用し、他大名も予備本陣として使用したとされる。
 主屋は切妻造の2階建てで、屋根の両側には卯建(うだつ)を有する。表は中山道に接して敷地間口いっぱいに建ち、2階高は1階の半分程であるのが特徴的である。桁行約13.6m(約7間)、梁間約18.1m(約9間)で京間を用い、2階の奥座敷などは完全な数寄屋造りである。
 平成6年の改修工事の際に発見された木材には
  「安政六年十二月六日 清七 米九合」
  との墨書銘があり、これは建物再建の際に大工などへの支給額を示したものと考えられる。これにより現在の建物が安政5(1858)年の大火で焼失した直後の安政6(1859)年に再建されたことが判明し、平成19年5月15日に国の登録有形文化財となった。

≪参考・引用文献≫
 藤島亥治郎 1990「旅籠屋だった大黒屋」『新住宅』VOL.45 No.517

(歴史の道 中山道保存整備事業報告書より)


 細久手宿は江戸から九二里余り、四八番目の宿に当たり、慶長十五年(一六一〇)に中山道六十九宿のーつとして発足し、宿内戸数は通常六〇~七〇戸でしたが、寛政十年(一七九八)・文化十年(一八一三)・安政五年(一八五八)と三度も全焼しており、現在も戸数は随分減少して左右の宿当時の家々の石積みや大黒屋、庚申堂などに往時の面影を偲ぶことができる程度です。尾州藩の定本陣・宿問屋役でもあった大黒屋は「ウダツ」も残り、上段の間もあって是非見学したい当時の建物であり、その上手の庚申堂は宿当時を偲ばす石仏石碑の所在地です。

 


 細久手宿には「尾州家定本陣」がある。これは脇本陣が手狭であったこと、他領主との合宿の場合を領主の尾州家が嫌って特に定めたと伝えられ、問屋役酒井吉右衛門宅がそれで同宿の特色でもある。今も当時の旅龍屋名「大黒屋」として現存しているが、玄関門で「うだつ」 を有し、上段之間ほかも残り、他大名の場合にも予備本陣として使用されている。


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