土岐津橋(高山橋)
土岐津橋は橋の長さは約100m、土岐川にかかり三共橋と中央橋の中間、土岐市駅より南東約1kmのところにあります。
江戸時代には中山道の槙ヶ根(恵那市)から下街道で名古屋へ行く途中この地を通り、ここには高山宿がありました。下街道は名古屋へ行くのに距離が短かく、難所も少なかったので、名古屋にとっても便利な商業道でした。多くの人がこの下街道を利用したので高山宿はかなりにぎわっていました。
当時の高山村は耕地が狭く農業だけでは生活が出来ないので、高山宿で運送賃、庭銭(荷物の保管料)や土岐川を渡る橋賃、舟賃を大きな収入源としていました。そのため高山宿は明治になるまで、宿の管理する土岐川に本格的な橋をかけないで、板を並べた程度の仮橋と舟で渡していました。当時高山宿の管理する渡しは、河合で土岐川を渡り、浅野で肥田川を、土岐口で妻木川、生田で生田川、再び土岐川の五ケ所があり、全部を渡らなければ行けませんでした。その渡し賃は合計21文で往復すると42文。(現在の二百円位?)当時の人々にとっては相当高い渡し賃でした。(対岸の大富側は一文も渡し賃をとられなかった)その為人々は高山宿に高い渡し賃や庭銭、運送賃をとられぬ苦心をいろいろしました。
寛政の頃、名古屋から積み出した、塩、塩物、藍、くちなし、木綿などは多治見まで運び、ここで、木曽からきた煙草、柿、板、まげもの、くりもの、櫛などと積みかえて名古屋へ帰り、高山宿を通らなくなりました。
高山宿はその馬士達と争い、その結果、高山宿は笠松御役所から 「馬士は高山村にて継合いいたし、高山村に世話料、庭銭相はらい申すべく候」との御廻状を得て争いに勝ちました。他にも高山宿をさけて脇道を通る村が多くありましたが、高山村はそれらの村を見逃さず、笠松の御役所の御威光を利用して、すべての脇道を封じたり、破壊したりしていました。高山村はかなり多くの争いをしましたが、すべて勝っていました。下街道を利用するこのあたりの村で高山村にたたかれない村は皆無であるといってよい程でした。「美濃じゃ高山、尾張じゃ小牧。人になさけのないとこじゃ」と歌われたほどでした。高山村のこの力は主に庄屋で付近四ケ村の総代を兼ねていた深萱惣助の知恵であったといわれています。
その後、明治になってこれまで土岐川の東西間の交流のみでしたが、現在の泉町側と土岐津側の交流が行なわれる様になってきて、高山村にとっても橋が必要となり、明治12年に初めて木橋がかけられました。明治17年に高山に交番や付近五ケ村の連合役場や中央高等小学校、明治32年に陶器講習所(多工高の前身)が設けられました。そして明治35年に国鉄中央線土岐津駅が現在の土岐市駅の位置にでき、この鉄道の開通で高山宿の機能はなくなりました。そのため高山村の資産家は製陶業に転業し、陶器のまちになっていきました。土岐津橋は昭和5年に永久橋となり、昭和55年に歩道をつける改良工事が行なわれ、現在の土岐津橋となりました。








