室町時代に京を逃れてきた足利義視が建てたとも、この地を訪れ居ついた前参議藤原氏の墓とも言われています。地元の人により手入れされ、かつての街道沿いにひっそりと建っています。
(釜戸再発見mapより)
宝篋印塔
論栃鳩吹 (一基分・旧岩竜山温光院跡、足利義視の供養塔と伝う 小型)
宝篋印塔
釜戸町論栃鳩吹 中島鉦三方裏山
(瑞浪の石造物より)
一四七七 文明九年 ・足利義視、土岐成頼に伴われて美濃に寄留す
美濃勢は、この応仁乱東濃合戦によって、以降しばらく東濃の一部を失うものの、西・南濃方面に大勝して西軍を常に有利に導いている。
この応仁の乱も、文明五年三月十八日に山名持豊が七十歳で、同五月十一日には細川勝元が四十四歳で死ぬと戦いの意味もなくなって次第に和平の方向へ向かい、文明九年(一四七七)十一月には、土岐成頼は義視を伴って美濃に帰り、大内政弘・畠山義就らも兵をまとめ、諸将もこれに続いて帰国しようやく一応の兵乱は終末を告げた。




