宗派/高野山真言宗
御本尊/大聖不動明王(秘仏) 弘法大師
御詠歌
きよらかな 光にこころ
あらわれて
不動のすくい 祈るあじの子
清光院は天台宗系の古寺院の多い東濃地方では珍しい真言宗(高野山弘法大師)寺院です。
南北朝の末期、至徳二年(1385)三条中納言のつれて来た重臣の一人、三条権中納言橋本道常郷が創建したと伝えられています。
天正三年(1575)兵火により焼失とされ、寛文年中再興、天和三年再焼と伝わり、この年に快全再々興して中興祖となりました。
1660年代、霊元天皇の御代になり、有縁の導師快全上人に依って再興され、1827年、観浄法印が没せられてからは再び無住、荒廃となり歴史が明らかではありません。
幕末の頃、諸国行脚中の清水悦道法印がこの地を訪れ、信徒の願いに応じて寺の再興に奔走しました。
昭和四年に本堂を再建しました。
以降真言の寺として南波氏および村民の信仰を受け現在にいたります。











三条中納言伝説
三条中納言が東濃土岐郡に住居を構えようとした時、家臣がその敷地を見分し、まずは寺河戸村に仮屋を建てておいて上洛し、中納言に報告した折、陰陽(おんみょう)博士の朝日大夫が下向して占った所、寺河戸と言う地名が不吉であると言う事で予定を替え、小田の原に屋敷と政所を建てて住居にしたと云う事です。
この町の予定地は屋敷の東鬼門に当たるので、地鎮の祈祷をする事になり、青帝青色(せいていせいしょく)の幣帛(へいはく)を供え、その土地を「一色」と名称し、又「稲荷大明神を観請し社を建て、祈願所としてこれを祭祀する一院も建立した」とし、一色の稲荷神社と清光院の創立についての縁起書とでも言うものの中に 「一色は不吉の地として屋敷を建てなかった」事になっているようです。
如意輪観音石像

明和三年(1766)光 座 二臂 思惟(しゆい)
の明和三年のものは一般的なものですが美しい像容のものです。
五輪塔



清光院伝五香円秘伝口伝法書
享和三年(1803)に書かれた「大師御夢窓、清光院伝五香円秘伝口伝法書」と云う覚書(南波松平氏蔵)がある。これは古義真言宗であった一色、清光院に残っていた文書である。秘伝口伝とあるから一般に公表されない療法として伝えられたものであろう。
近藤奇文
明治十七年、寺河戸・小田、山田の三村が連合して組合村を組織することに衆議がまとまり、組合村の中心に当たる一色の清光院に役場を置くこととし、その初代戸長に就任した。
吉次郎は後に奇文と号した。
清水快導(瑞浪市初代市長)
上一色の真言宗清光院第十八代住職の長男として生まれ、幼名を憲一といった。寺の後継者としての修行を積み十三才で得度の際、師僧より一字をいただき、快導と改名した。
昭和元年、先住の亡き後を受けて第十九代の住職となった。以後数年の間に、清光院の建物すべて(本堂・庫裏、納屋等)を新改築して面目を一新した。
稲荷神社

【祭神】宇迦之御魂命
【例祭日】十月第二日曜日
【由緒】素戔嗚尊の御子で、五穀の豊穣を護る御神である。応永年間(称光天皇御宇)この地に旭曜山清光院が建立されると、守護神として稲荷大明神を勧請された。天正年間(正親町天皇御宇)兵災によって焼失したが、元禄十年三月年、(1697 東山天皇御宇)再興。現在の本殿は明治五年(1872)再建、拝殿は大正十二年(1922)改築し今日に至る。