江戸時代、中山道と三河を結ぶ街道を三河街道といい、江戸時代前期は、駄知から明賀洞を経て猿子村(益見)から益見橋付近(山渡し)から名滝、半原を経て大湫宿へ出ていました。
天保年間に「ハラコ橋」がかかり、山渡し経由からハラコ橋経由に変わり、この道標はハラコ橋経由大湫宿へ行く道と、岩村、明智への分岐点に建てられたものといわれています。
三河街道は、三河地方の藩主が、参勤交代の折によく利用していました。
(土岐地区 郷土再発見より)
江戸時代、中山道と三河を結ぶ街道を三河街道といい、江戸時代前期は、駄知から明賀洞を経て猿子村(益見)から益見橋付近(山渡し)から名滝、半原を経て大湫宿へ出ていました。
天保年間に「ハラコ橋」がかかり、山渡し経由からハラコ橋経由に変わり、この道標はハラコ橋経由大湫宿へ行く道と、岩村、明智への分岐点に建てられたものといわれています。
三河街道は、三河地方の藩主が、参勤交代の折によく利用していました。
(土岐地区 郷土再発見より)