十三塚 八剱神社
豊臣秀吉の臣、森武蔵長可との戦いに敗れ、この地で散った小里城の落武者十三名の霊を慰めるために、明治8年に建立されたといわれています。
ところが、村人がこの塚をこわして一基にまとめてしまった。すると流行病が流行したので、塚の傍に八剣神社の小さな社殿を建て亡魂をなぐさめたと伝えられています。
(陶町の歴史散策マップより)
十三塚
十三塚は大川の東端、水上に接した中馬街道の要地である。天正三年十一月織田信長は、武田の武将である秋山左近を岩村城に包囲した時ここに関所を置き、小里城主和田内作に命じて中馬街道より入る糧道を絶たせた。天正年間本能寺の変があって織田信長が明智光秀に討たれ天下は又、戦国の世に立ち返るのではないかと思われるほど、騒がしくなった。この時、秀吉は電光石火の早業…山崎に於いて明智光秀を討ち、秀吉の天下とした。その臣である兼山城主である森武蔵は秀吉の命により、小里城を攻めた。時に天正11年の冬。
城主和田助右衛門光明はとても防ぎきれないと自ら火を放って小原城主 鈴木越中守を頼り、落ちていった。家臣達も思い思いに四方に散っていった。中でも主君の後を追った十三人の勇士は、この地大川で必死に戦ったが、小勢のため力尽きて、雪を地で真っ赤に染め全員討ち死にし、主君光明を小原城に送った。
村人達はこの勇士の末路に同情し、十三の墓をつくり丁寧にこれを弔った。
十三塚の名は、これから起こったと言われている。
落ちのびた城主和田光明が再び小里城に帰ることができたのは、それから17年後の慶長5年のことである。明治8年地租改正があり、この十三の土饅頭を取り崩し、一基の墓に祀ったが、たまたま悪疫が大流行した。誰言うともなく「十三の亡霊の祟り」だと…とうとう墓の側に八剱神社の小祠を建て、亡霊を慰めることにした。
これが皮肉にも「安産守護神」であろうとは、地下の十三の勇士は、さぞかし苦笑いしていることと思われる。
今も盛大な祭りが行われ、毎年善男全女のお詣りが非常に多い。
(陶資料より)
大川十三塚(おうかわじゅうさんづか)
本能寺で織田信長が討たれて、天下は又、戦国の世に立ちかえるのではないかと思われる程さわがしくなりました。
天下統一を旗印にしゃにむに進む信長にひたすら忠勤をはげんできた東濃諸氏は、天下の主人を失ってどうしてよいか迷いました。
信長をうったのが土岐一族の明智光秀であり、それからのさそいの手がのびましたが、その陣営につくこともせず、又電光石火の早業で光秀をうつ戦を起した秀吉の陣へもつきませんでした。
唯一人、妻木城主妻木広忠は光秀にしたがって近江坂本城で討死してしまいました。これは、光秀との縁が深かったことが不運をまねいたといわなければなりません。
光秀がうたれるど、美濃の勢力は秀吉につくもの、岐阜の織田信秀につくもの、三河の徳川家康とつながりをもつ者といろいろの方向に分れました。その間に三河の石川伯耆守(いしかわほうきのかみ)が、土岐・恵那を荒したり、兼山の森武蔵(もりむさし)が力にまかせて、切りとりをして勢力を伸ばしたりしました。
そして、秀吉の天下になると森武蔵は秀吉から東濃の領主として認められました。そうなっても小里氏たちはその命令にしたがおうとしませんでした。高山の平井氏が殺され、妻木氏が武蔵に一時降伏し森武蔵の攻撃が小里城へのびてくると、本能寺で戦死した彦太郎光久の跡をついで小里城主になっていた助右エ門光明は、とても防ぎきれないことを知って、一族の主だった者をつれて妹むこに当る、三河小原城主鈴木越中守をたよって落ちていきました。時に天正十一年冬のことです。
粉雪の中をふり返ると、城山がおぼろに浮かんでいます。一子彦五郎も馬上からふり返って
「父上、無念でございます」
とこぶしで涙を払いました。
昨日までは小なりとはいえ、一城の主として家臣をしたがえ、ほこりを持っていましたのに、よろい一両に身の回りの物をまどめての落人です。寒さがひしひしと身にこたえました。
「彦五郎よ、小里は我ら一族の里ぞ。いずれの日にかここへ帰られるよう心がけてくれ」
「はい」
落人の行き先に苦難がよこたわっていることは明らかです。
光明や彦五郎を囲んだニ十数名の行列は、山の田から川折へのつづら折れを黙々と進みました。雪は小止なく降っています。たずなを持つ手がこごえて、追々感覚を失っていきます。
行列が大川の辻までさしかかった時です。バラバラと一行の行方をさえぎった者があります。もう東濃一円に勢力をはり、反抗するものをうちしたがえている森武蔵の手の者です。
「おうそこなるは小里殿の一行とみたが、いずこへ行かれる」
「なに、さては森武蔵の手の者か、小里一族ならなんとする」
「知れたことよ、主命にそむいて退散する不届者、成敗してくれる」
「主命とはさてもおかしい、いつ我らが森武蔵ごときの命にしたがうと言った」
「何をこしゃくな」
四ー五十名の森の兵たちが、小里の一行をかこむようにして斬りかかりました。
「殿、ここはわれらにお任せください。さあ皆様一刻も早く」
こう言って進み出たのは家老と四ー五人の若ざむらいです。
「いや、われらも共に」
という光明や彦五郎の馬の尻を槍の柄でたたくと、馬は一さんにかけ出し、その他の者もその後を追いました。
四ー五十名にかこまれた小里家の武士たちは、雪の中で必死に戦いましたが、小半刻の後には大川の雪をまっ赤に染めて討死をとげていました。
戦がおさまった後、大川村の人々はかわいそうに思って、小里家の人々をていねいに埋めてやりました。そして、十三回忌の時になって十三塚がきずかれました。
落ちていった光明たちが、ふたたび小里へ帰ることができたのは、それから十七年後の慶長五年のことです。
(ふるさと瑞浪より)
大川十三塚にある馬頭観音堂に置かれている香鉢には、中馬上街道にふさわしい馬を曳いた人物像が彫られている。
大正十年、羽柴幸吉寄進
大川十三塚 名号石・道標 南無弘法大師順拝供養塔 右明知岩村道 左小里
小里氏と十三塚
徳川氏のもとへ逃れた小里光明は、家康から小原を給知されてここを守りますか、陶町大川の小里氏十三塚は光明退去の時に森氏の進撃軍と戦って死んだ小里勢の墓だといわれ、長可によって土岐郡地方の府城として築かれはじめた山田城は下山田に残っており、なかなかの規模ですが、築城は完成しないままに終わっています。