この岐礼は揖斐川に近い山間の里で、頼芸に最後まで仕えていた山本数馬貞正の出身地です。
天文二十一年(1552)三度道三によって大桑城を攻められた頼芸は近侍らに守られて山越しに岐礼へのがれ、上総・常陸・甲斐と流浪して三十年後の天正十年、織田方の将(頼芸の旧臣)稲葉一鉄によって命を助けられて稲葉氏の領内岐礼に入り、頼芸は盲目になって東春庵に迎えられたと言われています。岐礼の頼芸の墓は最後まで彼れの面倒を見て慶長十六年に死んだ山本数馬の家の墓所の傍らにあり、天保十三年に高橋宅政の子孫によって、宅政のものと同時に建てられています。
東春庵の変身である現法雲寺の過去帳によると、天正十三年四月ニ十五日没、土岐大膳太友治英公(管天寺殿大雄長岩大居士)慶長四年三月二十八日没、土岐左衛督胤倫公(広雲殿統岩正公大居士)らの名を初めとして文政十ニ年没の土岐信濃守某まで十二代の法名が残っています。
東春庵はその後東春院となり、現在は東春山 法雲寺となって対岸の高台に移っています。
地蔵菩薩を本尊とする臨済宗妙心寺派の寺院。天正10年(1582年)に揖斐の領主であった稲葉良通が没落していた旧主の土岐頼芸を招いて館を設けたのが起源です。土岐頼芸はこの地に移ってから間もなく没したため、その居館を草庵に改め、その名を法名の東春院殿左京兆文官宗芸大居士に因み東春庵としました。その後、正徳年間に現在の位置に寺基を移して東春山法雲寺と寺号を改めました。昭和49年(1974年)、別の位置にあった土岐頼芸の墓を寺の敷地内に移しました。








