日吉町細久手 日吉・愛宕神社
瑞浪市日吉町7853-2
【祭神】大山咋神・火産霊神
【例祭日】9月最終日曜日
【由緒】文禄4年(1595)正月13日夜、国枝与右衛門重圓なる者、霊夢により日吉大神並びに愛宕大神を相殿(三戸前)に祭鎮し、祠宇を創建して以来村社。更に明治6年5月15日村社の格に列した。
(岐阜県神社名鑑より)
祭神 大山咋神(おおやまぐいのかみ) 火産霊神(ほむすびのかみ)
日吉 ・愛宕 神社
瑞浪市日吉町7853番地の2(細久手)
400年前霊夢によって勧請
細久手は、かって中山道の宿として日吉郷の中心であったことはご承知の通りです。
慶長15年(1610)に江戸から48番目の宿として正式に成立しましたが、日吉神社はそれより15年前の文禄4年に創建されました。
細久手宿の開祖となっている国枝與左衛門が、文禄4年(1595)正月13日の夜、北嶺に燦然と輝く光の中から二柱の神が現れ、江州(ごうしゅう)坂本の山王と城州愛宕(じょうしゅうあたご)の神であると告げられる霊夢を見ました。彼は慄然として目覚め、その後日夜二神を敬仰していましたが、8月になって、夢の中の北嶺に二柱の神を祀りました。これが日吉神社創建の由緒です。
江州の山王というのは、今の大津市にある日吉大社の大山咋神、愛宕の神というのは、京都愛宕神社の火産霊神ですから、社号標には日吉、愛宕と並べてありますが、公式には日吉神社となっています。
このように、国枝與左衛門という人は細久手の大恩人ということで、その顕彰碑が参道入口の西にあり、毎年護国の英霊と共に、その慰霊の祭が行われております。
石鳥居と木製の両部鳥居をくぐって参道を登ると、社務所のある広場に出ます。一段高い所に社殿が建てられ、玉垣の中に寛永や寛政時代の古い燈籠を見ることができます。
賑わう津島神社の祭り
境内社として、内々神社、秋葉神社、津島神社、多賀神社、北野神社等が祀られていますが、津島神社の祭礼は細久手挙げての大祭となります。
毎年七月中旬、午前中に祭典が行われ、暗くなるのを待って、提灯を飾り立てた立派な船型の山車が曳き出されます。道の両側の家々にも提灯の灯がともります。山車の上で若衆がお囃子を演じ、ぎいぎいと船が曳かれていくと、沿道を埋めた人々から拍手が湧き、次々と祝儀袋が差し出されます。正に歴史の里、細久手を象徴する祭といえるでしょう。(現在は提灯祭りは中断中)
江戸時代には、津島神社を庚申堂の境内に祀って祭をしていましたが、明治八年に現在地へ移し、津島本社に倣った盛大な祭になりました。
(瑞浪市の神社[H10発行]より)
細久手 日吉・愛宕神社
日吉•愛宕神社
日吉•愛宕神社は細久手宿の産土(うぶすな)神社で、宿の西端南蔵院跡の北(右)手奥にあり、細久手宿を開いた国枝氏による文禄四年(一五九五)の創建である。
境内入口に建つ天保十四年(一八三四)の金比羅大権現碑は立派であり、嘉永の山燈篭は風情があって宿時代が偲ばれる。
(瑞浪市の中山道ガイドブックより)
日吉・愛宕神社
宿の西の霊場となる位置に文禄4年(1595)日吉神社と愛宕神社が祀られました。本殿前には、阿叫の狛犬、細久手最古の石燈寵、金比羅と学問の神様、北野天満宮の祠があります。
(細久手宿より)
宿場を構成する本陣や旅籠は、当然のことながら木造建築物であり、また建物が密集していたため、ひとたび火災が発生すると大きな被害となった。そのため宿場によっては夜番小屋を設けて火災に備え、さらに秋葉神社(祭神:防火の神とされる迦具土神(かぐつちのかみ)や愛宕神社(祭神:防火の神とされる火産霊命(ほむすびのみこと)などを祀った。
細久手宿の設置
宿設置以前の細久手については、大湫と同様によくわかっていない。細久手が文献史料に現れるのは『金山記』における森長可の苗木城(中津川市)攻略に関連してであり、「天正11(1583)年5月25日に苗木を出立して中津川・大井を通り、その夜は細久手に宿陣した」旨の記載があるのが最初である。
また、細久手の日吉・愛宕神社創建の棟札が文禄4(1595)年のものであることから、大湫宿と同様に天正~文禄年間に開拓が始まったものと思われるが、その後宿場として整備を進めたのは大久保長安と、その命をうけた国枝与左衛門であった。
細久手日吉・愛宕(あたご)神社
細久手宿の北東の高台に所在する、大山咋神(おおやまぐいのかみ)と火産霊神(ほむすびのかみ)を祭神とする細久手宿の産土(うぶすな)神社である。神社に残されている棟札には、
「山王大権現 愛宕大権現 祀記
文禄四年乙未正月十三日夜夢光明燦然耀於北嶺光中在二神、告曰江州坂本山王也、城州愛宕也、於是戦慄稽首然而夢覚爾来日夜敬仰其霊夢矣、因択地於余所有北嶺而創造祠、以八月二十一日再拝謹祀焉
文禄四年乙未八月 細湫 国枝与左衛門重円 」
と記され、当社が文禄4(1595)年に創建されたことを記している。これを訳せば「文禄
4年の正月13日の夜、北嶺(ほくれい)に燦然(さんぜん)と輝く光の中から2柱の神が現れ、江州(ごうしゅう)坂本の山王と城州(じょうしゅう)愛宕の神であると告げる夢を見た。彼は慄然(りつぜん)として目覚め、その後日夜2神を尊び、8月になってこの夢の北嶺にこの2神を祀った」となる。
江州の山王とは今の滋賀県大津市にある日吉大社の大山咋神(おおやまぐいのかみ)、城州愛宕の神とは京都愛宕神社の火産霊神(ほむすびのかみ)である。社号標には日吉・愛宕と並べ、愛宕神社としても有名であるが、公式には日吉神社である。
境内社として内々(うつつ)神社・秋葉神社・津島神社などが祀られており、毎年7月中頃に行われる津島神社の例祭は、舟形の山車(だし)が曳かれる大祭である。
なお、津島神社は江戸時代には庚申堂に祀られていたものが明治8(1875)年に現在地へ移されたもので、この例祭もこの際に津島本社に倣って盛大に行われるようになったとされる。
≪古記録≫
三王祠・愛宕祠 具在二細久手一〔濃陽志略〕
山王宮杉立木 長六十間、横五十六間〔濃州徇行記〕
山王社・愛宕社とも村うちにあり〔新撰美濃志〕
左の方なる林の中に鳥居あり。石坂のみゆるを何ぞと問へば、産土の神なりと答ふ。〔壬戌紀行〕
≪参考・引用文献≫
岐阜県神社庁瑞浪支部 1998『瑞浪市の神社』
(歴史の道 中山道保存整備事業報告書より)
左手の沢越しに、寛政十二年(一八〇〇)の西坂の六臂馬頭の石窟があり、宿の入口左手に天保十四年(一八四三)の大きな金毘羅石碑や嘉永六年(一八五三)の山辻灯篭の見えるのが細久手宿の日吉・愛宕神社で、文禄四年(一五九五)の古い創建の神社です。
境内灯篭
日吉町細久手日吉愛宕(宝永二・一七〇五・単・円)
山灯篭
日吉町細久手日吉愛宕(嘉永六・一八五三・単・山王山大権現・金毘羅大権現・村中安全・火袋加工)
(ふるさとの石碑と灯篭より)
日吉愛宕 大山昨命、火産美命 文禄四年八月創(一五九五) 旧村杜 日吉町細久手
日吉・愛宕神社
祭神は最初より山王(日吉)・愛宕両権現 細久手 宿老国枝氏文禄四年(一五九五)八月勧請 この棟札現存
平岩部落の東外れに広がるさして広くもない湿田が唯一の耕地であるから、宿以前には数戸の人戸の存在しか考えられず、細久手国枝氏による日吉・愛宕神社の創建棟札が文禄四年(一五九五)であるから、やはり天正~文禄年間ころに一〇戸内外の村落が誕生し、新中仙道開通の慶長八~九年に大湫、御嵩両宿の中間地点のことから立場(茶屋)となり、同十一年(一六〇六)の 「仮宿」、同十五年の「新宿成立」と発展したものであろう。
宿内の町並三町四五間、問屋場・本陣・脇本陣・高札場各一、旅寵屋二五~三五軒、宿中戸数六〇~七〇戸、人口二五〇~三百人(明治三年二六五人)という小宿であるが、宿内に現存している日吉・愛宕神社、庚申堂などはさすがに宿場町のものらしく立派である。
長安から、慶長十一年および同十五年の二度にわたって下命を受け、その都度細久手宿の新宿設置をなし遂げたのが国枝与左衛門である。当初における国枝氏と細久手との関係は、伝承されていなくて不明であるが、同宿の日吉・愛宕神社の文禄四年(一五九五)八月創建の棟札によると「願主国枝与左衛門重円」とあるから、恐らく国枝氏は長安の家来
でなく、文禄年中に細久手を開基していた元武士と考えられる。
細久手宿の規模については、絵図面も残っていなくて詳細には不明であるが、文化十年の細久手宿火事注進書によると「間ロ十三間梁四間半」とあり部屋数一四部屋、間口三間梁二の萱葺門と付属添家三があり、美濃十六宿中「中の下」といった大きさで、緊急時の避難場所は裏続きの日吉・愛宕神社境内であった。
細久手日吉・愛宕神社 祭神大山昨命 火産美命 旧村社 最古棟札 文禄四年(一五九五)八月造立 日吉町細久手
文禄四年日吉山王・城州愛宕二神の霊夢により国枝氏創造の棟札あり、国枝氏は細久手宿開基として近世には宿長となる、慶安五年(一六五二)再興、文化十一年(一八一四)の棟札とも由緒を詳しく記載し特に貴重なり。