二代守護・土岐頼遠が築いた長森城(現在の岐阜市長森切通付近)は、土岐氏が美濃・尾張・伊勢の三ヶ国守護を兼ねる強大な勢力へと発展する過程で、規模が不足するようになりました。三代守護の土岐頼康は、より大規模な統治拠点として革手城(川手城)を築き、守護所を移転させました。これにより、革手は東海の政治・軍事の新たな中心地となりました。
旧木曾川と現荒田川を改修し天然の地の利を生かした広大な城地で、七堂伽藍をもつ霊薬山正法寺·源氏の守護神八幡神社をはじめ、神社仏閣、数多くの平屋建築、城郭というより御殿風(都風)の建物だったといわれています。
第3代 頼 康(革手城)(1318~1387)健徳寺節叟善忠居士
第4代 康 行(革手城)(1350~1407)法雲院咲岩善喜居士
第5代 頼 忠(池田城)(1329~1397)禅蔵寺正庵真兼居士
第6代 頼 益(革手城)(1387~1414)興禅寺壽岳常保居士
第7代 持 益(革手城)(1407~1474)法国寺大助常祐居士
第8代 成 頼(革手城)(1446~1497)瑞龍寺国文宗安居士
第9代 政 房(革手城)(1467~1519)承隆寺海雲宗壽居士
第10代 政 頼(革手城)(1498~1546)南泉寺玉岑玄珪大居士
第11代 頼 芸(革手城)(1502~1582)東春院文関宗芸居士
革手城が都風となって繁栄したのは、建武の新政の失敗と応仁の乱で都を追われた公家·百官·天上人が地方の守護職を頼って寄宿したことにあります。これらの人々を受け入れるだけの余裕があったのは、西の大内氏(山口)と東の土岐氏(革手)でした。これらの人達は、都に帰る日を待ちながら詩歌·蹴鞠·能楽など、都文化の花を咲かせました。当時革手付近は「柳に桜をこきまぜて」錦を飾る京洛中の態に異ならざる盛んな有り様でした。
こうして築かれた革手府文化は、1494年の船田の乱によって3日3晩燃え続ける戦乱によって灰塵となりました。斎藤道三は岐阜城に本拠をもち革手城は廃城となりました。その上、徳川家康は加納城築城に土砂まで使用し、革手城は跡形もなくなりました。


