★美濃源氏土岐一族

長森城跡 岐阜県 岐阜市 切通

長森城(ながもりじょう)

 築城は室町幕府の二代美濃守護 土岐頼遠(よりとお)で、それまでの土岐氏の本拠地であった東美濃の土岐郡(大富館・一日市場居館)は、美濃国全体を統治するには東に寄りすぎていた(東偏)ため、頼遠は暦応年間(1338年〜1342年)頃に、より中心に近い厚見郡の長森に城を築いて移転しました。

濃州青野ヶ原の戦い

 暦応元年(延元三年 1338)北畠顕家を将とする南朝方の陸奥勢 五十万に攻撃を仕掛け、「濃州青野ケ原の戦」で頼遠自身も重傷を負い「長森の城に退けり」と太平記にある頼遠の居城です。

 青野原は関ヶ原合戦とほぼ同じ地点で展開され、結果は幕府方の敗北に終りました。 青野原敗戦に驚いた足利尊氏は、この宮方の大軍の入洛を防ぐべく、高師冬を急拠出動させ、ついで高師、細川頼之を増援に送って藤川に布陣させました。青野原に勝った北畠軍の謎の南転から、負けた幕軍は大局戦では有利となり、頼遠らは武功の勇士となって大いに名を挙げました。

長森合戦

 応永大年(1399)十一月将軍義満、管領 斯波義将に反目した関東管領足利満兼、大内義弘による「応仁の乱」に共謀して、六代守護 頼益が義満に従って和泉に出陣中に起きた従兄弟肥田詮直(元尾張守護代)、伊勢の世保康政(四代康行の子)らによる尾張挙兵、そして美濃侵入による「長森合戦」 の行われた歴史の跡でもあります。

 長森城は頼遠・頼康の時代の拠点でしたが、三代守護・土岐頼康の時に、さらに広大な規模を持つ革手城(かわてじょう)を築いて移転したため、守護の居城としての役割を終えました。その後は次弟の土岐直氏らが在城しました。

 長森駅の南西、切通しがその跡ですが遺溝は残ってはいません。長森南小学校の東方から手力神社附近にかけて当時の長森城の石垣と思われる石積みがところどころみられるといいます。現在手力神社の境内に移されている宝篋印塔の二体分は「土岐頼遠のもの」と伝えられていますが確証はありません。


手力雄(てぢからお)神社

御鎮座:貞観二年(860)旧暦九月十四日(現在の十月二十二日)
御祭神:天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)通称「てぢからさま」
「手力様お助け下さい」と三度唱えることから「お」は脱落する。

 木曽川を東から京に上った軍勢は、源範頼が最初であったと思われる。東海道を西進し、熱田に至ると、通常七里の渡しで桑名に至る。木曾三川の渡河を一度で済ますためだが、何千、何万の軍勢が敵前を渡河するには、北進し、徒歩で渉れる長森口を渉るしかない。これに最初に気付いたのは坂上田村麻呂と思われる。当否は別にして東軍の防ぎに、美濃側の防御点として戦略上の要衝である長森に手力雄神社は築かれたと思われる。貞観二年とは坂上田村麻呂が宮城(みやぎ)を築いた直後である。
 延喜式に「鄙守神社」とあり、美濃雑事記に「ひなもり神社、いま手力雄神社といふ」とある。
 平安朝の荘園時代、厚見郡の大半「鶉・茜部」は東大寺領であったが、長森は花園天皇(後醍醐天皇の父君)の代まで皇室領であった。花園天皇の寄進により、京都大徳寺の荘園となった。


切通観音堂 切通陣屋跡

 ここはかつて長森城があった所と伝えられ、川手城(岐阜市)に移るまでは美濃源氏の嫡流土岐氏の居城でした。

 1803年(享和3年)に切通陣屋が建てられてから、明治時代に破却されるまでの67年間、切通観音堂は「陣屋の守り本尊」として位置づけられていました。この関係から、地域住民のみならず遠方からも多くの参拝者が訪れ、地域の活気を支える存在であったとされています。
 観音堂の横や背後には、1963年に出土した古い五輪塔の石が積まれています。これは、かつて切通陣屋の御白洲(裁判の場)で裁かれた人々の供養塔であったという伝承があり、陣屋の記憶を今に伝える貴重な遺構となっています。
 幕末に尊皇攘夷を掲げる天狗党が中山道を進軍した際、切通陣屋は観音堂に誓願を立てて迎撃の準備を整えました。結果として天狗党が回避し、戦闘が起こらなかったため、人々は本尊である聖観世音菩薩のご加護であると大いに喜んだと伝えられています。

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